金沢へ出張 -- 1時間だけのそぞろある記 [旅行やお出かけ]
先週の土曜日、学会出張で金沢へ行ってきました。

金沢へは、これまでも何度か訪れたことがあるのですが、いずれも同様の出張のためで、これまで市内を見て歩くと言うことができませんでした。
今回、仕事の合間をぬって、わずか1時間ほどではありましたが、初めて市内の様子を眺めてきました。
学会をやっていた場所から、香林坊、片町という繁華街を抜けて、犀川のほとりまで来ました。

橋の名前は「犀川大橋」だそうですが、銘板は「橋大川犀」となっています。 最近は、この程度の大きさの橋でこんな立派なトラスが架けてあるのは珍しくなったような気がします。 橋の建設が大正11年ということで、納得しました。
ここで川沿いに曲がりましたら、偶然にもそこはこんな名前の道でした。

この辺から見える風景は、何となく京都の賀茂川に似ているような気がしました。

少し歩いていきますと、その道の名前どおり、犀星の詩碑がひっそりと立っていました。

刻まれていたのは「小景異情」の一節でした。

筆跡は明らかに犀星自身のものと思われます。
同時代の詩人でも、たとえば萩原朔太郎などに比べ、犀星の詩は私にとって、心に響いてくるまでに時間がかかりました。 朔太郎の詩はあくまでも直截に、赤裸々に心情を開陳したものが多いと思いますが、犀星の詩はそこに込められた意図も、文体も、こういうものを一番読んでいた高校生のころの私にはまだ「難しかった」ような気がします。 でも、今では犀星の詩の重みを少しですが感じられるようになりました。
20年ぶりくらいに思いがけず旅先で出会った、この短い一節でしたが、つい昨日読んだかのような、既視感にも似た不思議な感情にとらえられて、しばらくこの碑の前を動けませんでした。
この詩碑の裏手にも、地元の歌人や俳人の作品を刻んだ碑がいくつかあって、さながら文学館の前庭のような様相でした。
その中の一つ。 明治時代、村上賢三という地元のお医者さんの作品を刻んだもの。

『犀川の雪消しの水の音高く遠さかれどもなおも聞こゆる』
・・・ なんか、シューベルトの「菩提樹」の詩を思わせる歌だな ・・・ と思って、印象に残りました。
ここらから適当に曲がって、城下町らしい細い路地を抜けてみました。

昔ながらの板塀、由緒ありげな石の道標、そして、細い路地をその幅いっぱいに抜けてくる車 ・・・ なんか、レトロ趣味のジオラマにミニカーを走らせているみたいな光景を見ることができました。
もう少し進むと、名前を忘れてしまったのですが、こんな味のある風景の商店街に出ました。

こんなのが八百屋さんだったり

こんなのが肉屋さんだったり

ということで、懐かしい気持ちでいっぱいになります。
また、たまたま私の歩いたところがそうだっただけかも知れませんが、この町には骨董屋とか古道具屋とかがずいぶん多いな、という印象を受けました。

そろそろ学会場に戻らなくてはならないな- (-_-; ということで、戻る方向に足を進め、その名も「百万石通り」という大通りに出ました。

でも、こんな町の中心の大通りにも、掘り割りという昔懐かしい光景を目にして心が和みます。
四高記念館。

私は家族や親類縁者を含め、旧制四高に縁のある人など誰もいないのですが、大学なんていうところに勤めていると、こういう歴史的な教育機関のというのはやっぱり興味があります。 特に四高は多数の著名人や文化人を輩出した校風のところですからなおさらです。
でも今回、この中に入ってその建物や展示を見る時間がどうしてもなかったのが痛恨事でした! 次回の訪問の時には是非と思っています。
金沢市内には、主な観光名所や旧跡などのポイントに立ち寄りながら走る「ぶらっとバス」というのがあって、とにかく町中至る所で何度も見かけました。 犀星の詩碑のところを通る路線なんかもあったようです。
そして、バスがフォルクスワーゲンなのがなんともおしゃれでした。

わずか1時間ほどの町歩きはあっという間に終わってしまって、学会場まで戻ってきました。 道路には、裏路地の隅々にまで融雪用の散水装置(名前を知りませんが)が張りめぐらされているのに驚きました。

雪国に暮らしたことのない私には、こういうのはとてももの珍しく感じられます。
また学会場の中へ。
あまりにも短い町歩きでしたが、今回の学会は勉強になることが特に多く、実りが多かったので、まあ仕方ないでしょう。

帰途、小松空港にて。

今回は台風12号の影響で、行きも帰りも飛行機はずいぶんと揺れてちょっと怖い思いをしました。
帰りは、機長のアナウンスによると、台風からできるだけ離れて飛ぶべく、北寄りのコースに迂回して飛んだとのこと。 羽田空港の混雑のために旋回していた時間などもあり、結局定刻より30分も遅れて到着しました。
金沢のおみやげのことは、私は何も知らないので、デパートでお店の人に薦められるがままにいくつか。
甘清堂というところの大福。 とにかく豆の粒が大きいのが印象的。

ピナが先日、ちり紙で大福を作りましたが、それにちなんでこれを買っていってあげました。
仕事場には 小出という菓子司の「三作せんべい」、「柴舟」。

「柴舟」はショウガの入った、独特の辛みが甘みと混じった、不思議な味のせんべいで、私は気に入りました。
やはり古い城下町のようなところを歩くのはいいものです。 ですが金沢城趾、兼六園などはまだ行ったことがありません。
また訪れたいと思います。
金沢へは、これまでも何度か訪れたことがあるのですが、いずれも同様の出張のためで、これまで市内を見て歩くと言うことができませんでした。
今回、仕事の合間をぬって、わずか1時間ほどではありましたが、初めて市内の様子を眺めてきました。
学会をやっていた場所から、香林坊、片町という繁華街を抜けて、犀川のほとりまで来ました。
橋の名前は「犀川大橋」だそうですが、銘板は「橋大川犀」となっています。 最近は、この程度の大きさの橋でこんな立派なトラスが架けてあるのは珍しくなったような気がします。 橋の建設が大正11年ということで、納得しました。
ここで川沿いに曲がりましたら、偶然にもそこはこんな名前の道でした。
この辺から見える風景は、何となく京都の賀茂川に似ているような気がしました。
少し歩いていきますと、その道の名前どおり、犀星の詩碑がひっそりと立っていました。
刻まれていたのは「小景異情」の一節でした。
筆跡は明らかに犀星自身のものと思われます。
同時代の詩人でも、たとえば萩原朔太郎などに比べ、犀星の詩は私にとって、心に響いてくるまでに時間がかかりました。 朔太郎の詩はあくまでも直截に、赤裸々に心情を開陳したものが多いと思いますが、犀星の詩はそこに込められた意図も、文体も、こういうものを一番読んでいた高校生のころの私にはまだ「難しかった」ような気がします。 でも、今では犀星の詩の重みを少しですが感じられるようになりました。
20年ぶりくらいに思いがけず旅先で出会った、この短い一節でしたが、つい昨日読んだかのような、既視感にも似た不思議な感情にとらえられて、しばらくこの碑の前を動けませんでした。
この詩碑の裏手にも、地元の歌人や俳人の作品を刻んだ碑がいくつかあって、さながら文学館の前庭のような様相でした。
その中の一つ。 明治時代、村上賢三という地元のお医者さんの作品を刻んだもの。
『犀川の雪消しの水の音高く遠さかれどもなおも聞こゆる』
・・・ なんか、シューベルトの「菩提樹」の詩を思わせる歌だな ・・・ と思って、印象に残りました。
ここらから適当に曲がって、城下町らしい細い路地を抜けてみました。
昔ながらの板塀、由緒ありげな石の道標、そして、細い路地をその幅いっぱいに抜けてくる車 ・・・ なんか、レトロ趣味のジオラマにミニカーを走らせているみたいな光景を見ることができました。
もう少し進むと、名前を忘れてしまったのですが、こんな味のある風景の商店街に出ました。
こんなのが八百屋さんだったり
こんなのが肉屋さんだったり
ということで、懐かしい気持ちでいっぱいになります。
また、たまたま私の歩いたところがそうだっただけかも知れませんが、この町には骨董屋とか古道具屋とかがずいぶん多いな、という印象を受けました。
そろそろ学会場に戻らなくてはならないな- (-_-; ということで、戻る方向に足を進め、その名も「百万石通り」という大通りに出ました。
でも、こんな町の中心の大通りにも、掘り割りという昔懐かしい光景を目にして心が和みます。
四高記念館。
私は家族や親類縁者を含め、旧制四高に縁のある人など誰もいないのですが、大学なんていうところに勤めていると、こういう歴史的な教育機関のというのはやっぱり興味があります。 特に四高は多数の著名人や文化人を輩出した校風のところですからなおさらです。
でも今回、この中に入ってその建物や展示を見る時間がどうしてもなかったのが痛恨事でした! 次回の訪問の時には是非と思っています。
金沢市内には、主な観光名所や旧跡などのポイントに立ち寄りながら走る「ぶらっとバス」というのがあって、とにかく町中至る所で何度も見かけました。 犀星の詩碑のところを通る路線なんかもあったようです。
そして、バスがフォルクスワーゲンなのがなんともおしゃれでした。
わずか1時間ほどの町歩きはあっという間に終わってしまって、学会場まで戻ってきました。 道路には、裏路地の隅々にまで融雪用の散水装置(名前を知りませんが)が張りめぐらされているのに驚きました。
雪国に暮らしたことのない私には、こういうのはとてももの珍しく感じられます。
また学会場の中へ。
あまりにも短い町歩きでしたが、今回の学会は勉強になることが特に多く、実りが多かったので、まあ仕方ないでしょう。
帰途、小松空港にて。
今回は台風12号の影響で、行きも帰りも飛行機はずいぶんと揺れてちょっと怖い思いをしました。
帰りは、機長のアナウンスによると、台風からできるだけ離れて飛ぶべく、北寄りのコースに迂回して飛んだとのこと。 羽田空港の混雑のために旋回していた時間などもあり、結局定刻より30分も遅れて到着しました。
金沢のおみやげのことは、私は何も知らないので、デパートでお店の人に薦められるがままにいくつか。
甘清堂というところの大福。 とにかく豆の粒が大きいのが印象的。
ピナが先日、ちり紙で大福を作りましたが、それにちなんでこれを買っていってあげました。
仕事場には 小出という菓子司の「三作せんべい」、「柴舟」。
「柴舟」はショウガの入った、独特の辛みが甘みと混じった、不思議な味のせんべいで、私は気に入りました。
やはり古い城下町のようなところを歩くのはいいものです。 ですが金沢城趾、兼六園などはまだ行ったことがありません。
また訪れたいと思います。
陸前高田行、およびお墓参り [旅行やお出かけ]
私の父の実家は岩手県陸前高田市です。 つい先日までは、よほどあの辺の地理に詳しい人以外は知っている人がいない町でしたが、このたびの津波で、日本で一番有名な町の一つになってしまいました。

それはともかく、今回の訪問の目的はお盆の墓参りです。 去る8月15日に行ってきました。
実家のある場所は、行政区画としては陸前高田市内なのですが、津波で壊滅した市の中心部からはずっと離れた漁村の方であり、また家も相当な高台にあるので、幸いにも今回の津波の被害は免れました。
下の写真は、実家から少し離れた集落のものですが、近景の家々の屋根を見ると、それほどの被害には遭っていないことが分かります。

実家から車で10分ほどのところにあるお寺の墓地に早速お参りしました。
墓地内は、倒れた墓石が目立ちます。うちの墓所も、隣のお墓の墓石が倒れて寄りかかってきているという、大変に危険な状態にあったので、つっかえ棒などの応急処置がお寺によってなされていました。
お供え物、お線香などを準備します。 子どもたちは、こういうのを普段見慣れないので、興味津々でおじいちゃんの手先に注目しています。

それで、「おじいちゃん、おばあちゃん、こんにちわ。 みんな揃って来ました」

お墓への水まきは、水遊び好きの子どもたちが先を争ってやっていました。

ソワも、おじいちゃんに教わって、花やお供え物を並べ、線香を手向けます。

これで、今回の最大訪問目的を達しました。
墓所からお寺の本堂の方を見ましたら、こんな風景が見えました。

写真中央左半分には、家々が立ち並んでいます。 これに隣接する右半分にも、以前は同様に家がたちならんでいました。 これが、津波によってちょうど切り取られるように、右半分の地域だけさらわれてしまったという様子です。
これに類する光景は、ほかにも随所で見られました。
お墓参りに続いて、付近の親戚を訪ねました。
私の叔父の家。 津波の際、2階建ての家の1階部分はほぼ完全に水没したそうで、壁の天井近くに水位を物語る泥の痕がくっきりと残っていました。
それでも泥やら瓦礫やらを片付け、お仏壇の前に1枚だけ畳を敷いて、こんな状態にしてありました。

津波が襲った際の水圧で、壁の1カ所がブチ抜かれていました。

でも、このとおり物理的にはまだまだ復興と言うにはほど遠い状態ながら、地元の人々の生活や意識は震災前に復帰しつつあるようでした。
この翌日、壊滅した市内にある親戚宅の跡地を探しに行ったのですが、こちらの方は残念ながら、あまりの破壊のひどさに目的を達せられませんでした。
現在の陸前高田市役所。 市の中心部から車で10分ほど行った高台に、この通りの仮設住宅のような状態で機能していました。

市内の様子については、私も個人的にいろいろと感じること、思うことがあり、それについてはまた改めて書きたいと思います。

それはともかく、今回の訪問の目的はお盆の墓参りです。 去る8月15日に行ってきました。
実家のある場所は、行政区画としては陸前高田市内なのですが、津波で壊滅した市の中心部からはずっと離れた漁村の方であり、また家も相当な高台にあるので、幸いにも今回の津波の被害は免れました。
下の写真は、実家から少し離れた集落のものですが、近景の家々の屋根を見ると、それほどの被害には遭っていないことが分かります。

実家から車で10分ほどのところにあるお寺の墓地に早速お参りしました。
墓地内は、倒れた墓石が目立ちます。うちの墓所も、隣のお墓の墓石が倒れて寄りかかってきているという、大変に危険な状態にあったので、つっかえ棒などの応急処置がお寺によってなされていました。
お供え物、お線香などを準備します。 子どもたちは、こういうのを普段見慣れないので、興味津々でおじいちゃんの手先に注目しています。

それで、「おじいちゃん、おばあちゃん、こんにちわ。 みんな揃って来ました」

お墓への水まきは、水遊び好きの子どもたちが先を争ってやっていました。

ソワも、おじいちゃんに教わって、花やお供え物を並べ、線香を手向けます。

これで、今回の最大訪問目的を達しました。
墓所からお寺の本堂の方を見ましたら、こんな風景が見えました。

写真中央左半分には、家々が立ち並んでいます。 これに隣接する右半分にも、以前は同様に家がたちならんでいました。 これが、津波によってちょうど切り取られるように、右半分の地域だけさらわれてしまったという様子です。
これに類する光景は、ほかにも随所で見られました。
お墓参りに続いて、付近の親戚を訪ねました。
私の叔父の家。 津波の際、2階建ての家の1階部分はほぼ完全に水没したそうで、壁の天井近くに水位を物語る泥の痕がくっきりと残っていました。
それでも泥やら瓦礫やらを片付け、お仏壇の前に1枚だけ畳を敷いて、こんな状態にしてありました。

津波が襲った際の水圧で、壁の1カ所がブチ抜かれていました。

でも、このとおり物理的にはまだまだ復興と言うにはほど遠い状態ながら、地元の人々の生活や意識は震災前に復帰しつつあるようでした。
この翌日、壊滅した市内にある親戚宅の跡地を探しに行ったのですが、こちらの方は残念ながら、あまりの破壊のひどさに目的を達せられませんでした。
現在の陸前高田市役所。 市の中心部から車で10分ほど行った高台に、この通りの仮設住宅のような状態で機能していました。

市内の様子については、私も個人的にいろいろと感じること、思うことがあり、それについてはまた改めて書きたいと思います。