くまおとーさん日記
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/
横浜の病院に勤務する医師ですが、「病理科」という、聞きなれない科が専門です。仕事場と家との往復の毎日をつづりました。
くまおとーさん
2012-12-01T01:47:21+09:00
ja
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転勤
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2012-12-01
1年ほど前に、横浜市内の病院に転勤となりました。 これまで20年近く、大学の教員という職で過ごしてきましたが、大学卒業後の短い研修以来、本当に久しぶりに病院に勤務することになりました。 慣れないところで、いきなり激務の日々となり、ここ1年ばかりは(心理的に)とても定期的にブログを更新するような状況になく、しばらくあばら家にしてしまいました。 先日、「ブログレポート」が来た際に、なんと半年ぶりに自分のこのページを開いてみたら、なんとコメントを一つ頂いていたりしました。 ようやく、ちょっと仕事のペースがつかめてきたこの頃、これからごくたまにでも、また何かを書いていこうかと思っています。
未分類
くまおとーさん
2012-12-01T01:47:21+09:00
これまで20年近く、大学の教員という職で過ごしてきましたが、大学卒業後の短い研修以来、本当に久しぶりに病院に勤務することになりました。
慣れないところで、いきなり激務の日々となり、ここ1年ばかりは(心理的に)とても定期的にブログを更新するような状況になく、しばらくあばら家にしてしまいました。
先日、「ブログレポート」が来た際に、なんと半年ぶりに自分のこのページを開いてみたら、なんとコメントを一つ頂いていたりしました。
ようやく、ちょっと仕事のペースがつかめてきたこの頃、これからごくたまにでも、また何かを書いていこうかと思っています。
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金沢へ出張 -- 1時間だけのそぞろある記
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-09-08
先週の土曜日、学会出張で金沢へ行ってきました。 金沢へは、これまでも何度か訪れたことがあるのですが、いずれも同様の出張のためで、これまで市内を見て歩くと言うことができませんでした。 今回、仕事の合間をぬって、わずか1時間ほどではありましたが、初めて市内の様子を眺めてきました。 学会をやっていた場所から、香林坊、片町という繁華街を抜けて、犀川のほとりまで来ました。橋の名前は「犀川大橋」だそうですが、銘板は「橋大川犀」となっています。 最近は、この程度の大きさの橋でこんな立派なトラスが架けてあるのは珍しくなったような気がします。 橋の建設が大正11年ということで、納得しました。 ここで川沿いに曲がりましたら、偶然にもそこはこんな名前の道でした。 この辺から見える風景は、何となく京都の賀茂川に似ているような気がしました。 少し歩いていきますと、その道の名前どおり、犀星の詩碑がひっそりと立っていました。刻まれていたのは「小景異情」の一節でした。筆跡は明らかに犀星自身のものと思われます。 同時代の詩人でも、たとえば萩原朔太郎などに比べ、犀星の詩は私にとって、心に響いてくるまでに時間がかかりました。 朔太郎の詩はあくまでも直截に、赤裸々に心情を開陳したものが多いと思いますが、犀星の詩はそこに込められた意図も、文体も、こういうものを一番読んでいた高校生のころの私にはまだ「難しかった」ような気がします。 でも、今では犀星の詩の重みを少しですが感じられるようになりました。 20年ぶりくらいに思いがけず旅先で出会った、この短い一節でしたが、つい昨日読んだかのような、既視感にも似た不思議な感情にとらえられて、しばらくこの碑の前を動けませんでした。 この詩碑の裏手にも、地元の歌人や俳人の作品を刻んだ碑がいくつかあって、さながら文学館の前庭のような様相でした。 その中の一つ。 明治時代、村上賢三という地元のお医者さんの作品を刻んだもの。 『犀川の雪消しの水の音高く遠さかれどもなおも聞こゆる』・・・ なんか、シューベルトの「菩提樹」の詩を思わせる歌だな ・・・ と思って、印象に残りました。 ここらから適当に曲がって、城下町らしい細い路地を抜けてみました。昔ながらの板塀、由緒ありげな石の道標、そして、細い路地をその幅いっぱいに抜けてくる車 ・・・ なんか、レトロ趣味のジオラマにミニカーを走らせているみたいな光景を見ることができました。 も..
旅行やお出かけ
くまおとーさん
2011-09-09T00:31:59+09:00
金沢へは、これまでも何度か訪れたことがあるのですが、いずれも同様の出張のためで、これまで市内を見て歩くと言うことができませんでした。
今回、仕事の合間をぬって、わずか1時間ほどではありましたが、初めて市内の様子を眺めてきました。
学会をやっていた場所から、香林坊、片町という繁華街を抜けて、犀川のほとりまで来ました。
橋の名前は「犀川大橋」だそうですが、銘板は「橋大川犀」となっています。 最近は、この程度の大きさの橋でこんな立派なトラスが架けてあるのは珍しくなったような気がします。 橋の建設が大正11年ということで、納得しました。
ここで川沿いに曲がりましたら、偶然にもそこはこんな名前の道でした。
この辺から見える風景は、何となく京都の賀茂川に似ているような気がしました。
少し歩いていきますと、その道の名前どおり、犀星の詩碑がひっそりと立っていました。
刻まれていたのは「小景異情」の一節でした。
筆跡は明らかに犀星自身のものと思われます。
同時代の詩人でも、たとえば萩原朔太郎などに比べ、犀星の詩は私にとって、心に響いてくるまでに時間がかかりました。 朔太郎の詩はあくまでも直截に、赤裸々に心情を開陳したものが多いと思いますが、犀星の詩はそこに込められた意図も、文体も、こういうものを一番読んでいた高校生のころの私にはまだ「難しかった」ような気がします。 でも、今では犀星の詩の重みを少しですが感じられるようになりました。
20年ぶりくらいに思いがけず旅先で出会った、この短い一節でしたが、つい昨日読んだかのような、既視感にも似た不思議な感情にとらえられて、しばらくこの碑の前を動けませんでした。
この詩碑の裏手にも、地元の歌人や俳人の作品を刻んだ碑がいくつかあって、さながら文学館の前庭のような様相でした。
その中の一つ。 明治時代、村上賢三という地元のお医者さんの作品を刻んだもの。
『犀川の雪消しの水の音高く遠さかれどもなおも聞こゆる』
・・・ なんか、シューベルトの「菩提樹」の詩を思わせる歌だな ・・・ と思って、印象に残りました。
ここらから適当に曲がって、城下町らしい細い路地を抜けてみました。
昔ながらの板塀、由緒ありげな石の道標、そして、細い路地をその幅いっぱいに抜けてくる車 ・・・ なんか、レトロ趣味のジオラマにミニカーを走らせているみたいな光景を見ることができました。
もう少し進むと、名前を忘れてしまったのですが、こんな味のある風景の商店街に出ました。
こんなのが八百屋さんだったり
こんなのが肉屋さんだったり
ということで、懐かしい気持ちでいっぱいになります。
また、たまたま私の歩いたところがそうだっただけかも知れませんが、この町には骨董屋とか古道具屋とかがずいぶん多いな、という印象を受けました。
そろそろ学会場に戻らなくてはならないな- (-_-; ということで、戻る方向に足を進め、その名も「百万石通り」という大通りに出ました。
でも、こんな町の中心の大通りにも、掘り割りという昔懐かしい光景を目にして心が和みます。
四高記念館。
私は家族や親類縁者を含め、旧制四高に縁のある人など誰もいないのですが、大学なんていうところに勤めていると、こういう歴史的な教育機関のというのはやっぱり興味があります。 特に四高は多数の著名人や文化人を輩出した校風のところですからなおさらです。
でも今回、この中に入ってその建物や展示を見る時間がどうしてもなかったのが痛恨事でした! 次回の訪問の時には是非と思っています。
金沢市内には、主な観光名所や旧跡などのポイントに立ち寄りながら走る「ぶらっとバス」というのがあって、とにかく町中至る所で何度も見かけました。 犀星の詩碑のところを通る路線なんかもあったようです。
そして、バスがフォルクスワーゲンなのがなんともおしゃれでした。
わずか1時間ほどの町歩きはあっという間に終わってしまって、学会場まで戻ってきました。 道路には、裏路地の隅々にまで融雪用の散水装置(名前を知りませんが)が張りめぐらされているのに驚きました。
雪国に暮らしたことのない私には、こういうのはとてももの珍しく感じられます。
また学会場の中へ。
あまりにも短い町歩きでしたが、今回の学会は勉強になることが特に多く、実りが多かったので、まあ仕方ないでしょう。
帰途、小松空港にて。
今回は台風12号の影響で、行きも帰りも飛行機はずいぶんと揺れてちょっと怖い思いをしました。
帰りは、機長のアナウンスによると、台風からできるだけ離れて飛ぶべく、北寄りのコースに迂回して飛んだとのこと。 羽田空港の混雑のために旋回していた時間などもあり、結局定刻より30分も遅れて到着しました。
金沢のおみやげのことは、私は何も知らないので、デパートでお店の人に薦められるがままにいくつか。
甘清堂というところの大福。 とにかく豆の粒が大きいのが印象的。
ピナが先日、ちり紙で大福を作りましたが、それにちなんでこれを買っていってあげました。
仕事場には 小出という菓子司の「三作せんべい」、「柴舟」。
「柴舟」はショウガの入った、独特の辛みが甘みと混じった、不思議な味のせんべいで、私は気に入りました。
やはり古い城下町のようなところを歩くのはいいものです。 ですが金沢城趾、兼六園などはまだ行ったことがありません。
また訪れたいと思います。
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最近のピナの作品より
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-09-05
夏休みの仙台・陸前高田帰省時の記録がまだ未完成なのですが、また忙しくなってしまいどうもうまくまとめきれません。それとは関係のない、ピナの最近の手仕事の様子をちょっと書くことにしました。ピナは最近ますますお絵かきやら工作やらに手が込んできました。 ヒマさえあればなんか描いたり作ったりしています。 まあ悪いことではないので、自由にやらせています。最初は、先日の仙台帰省時のもの。「パソコン」 だそうです。ノートパソコンでしょう、お絵かき帳の向こう側のページがディスプレイ、手前側のページがキーボード、ということのようです。 右に置いてあるおむすびのようなものは・・・ マウスなんだそうです。 それでこの作品のミソは、マウスをクリックすると・・・と画面が変わり、 またクリックすると・・・という具合に、全部で10ページほども画面を書き、自分で「かちっ、かちっ」などといいながらクリックしては画面を切り替えて(?) 遊んでいました。ちなみに、画面の絵の右側には 「もうど ちぇんじ」 (モードチェンジ)の字が見えます。 プリキュアの影響でしょうか。 1週間近くもいた仙台を離れて帰るとき。 おじいちゃんが 「ピナたちがいなくなって、また寂しくなるなー」 と言っておりましたら、ピナが 「じゃあ、ピナがお土産を置いていってあげるね」 と言って作ったのがこれです。これはなかなかすごいと思いました。 ちり紙を丸め、セロテープで押さえて、マジックで黒豆を描いて作った大福餅。 遠くから見たとき、私は本当の大福が置いてあるのかと思いました。おじいちゃんに置いて行くべく、風呂敷に包んでいるところ。最終的にこれにはジュンも参加して、大福におにぎりを加え、(それぞれのおにぎりの味を区別していたが、どれがどれだか忘れてしまった)、ちょっとしたお弁当が出来上がりました。次は幼稚園の預かり保育で作ってきたかご。先生の話では、放射状の骨組みだけがまず与えられて、それに自分で色を選びながら紐を巻いていって、このようなかごを作るとのことでした。よく見ると、けっこう丹念に紐を巻き付けた後が分かって感心しました。少し経ってから見たら、早速なんかガラクタ(こんなことを言ったらピナに怒られるか)を入れていました。お財布・カード入れ。 手近にあった、セロハン紙のような材質のおりがみで作りました。いつもながらピナの作品は色使いがアヴァンギャルド。で、ちゃんと開きます。止めるため..
子どもたち
くまおとーさん
2011-09-05T22:39:25+09:00
それとは関係のない、ピナの最近の手仕事の様子をちょっと書くことにしました。
ピナは最近ますますお絵かきやら工作やらに手が込んできました。 ヒマさえあればなんか描いたり作ったりしています。 まあ悪いことではないので、自由にやらせています。
最初は、先日の仙台帰省時のもの。
「パソコン」 だそうです。
ノートパソコンでしょう、お絵かき帳の向こう側のページがディスプレイ、手前側のページがキーボード、ということのようです。 右に置いてあるおむすびのようなものは・・・ マウスなんだそうです。
それでこの作品のミソは、
マウスをクリックすると・・・
と画面が変わり、 またクリックすると・・・
という具合に、全部で10ページほども画面を書き、自分で「かちっ、かちっ」などといいながらクリックしては画面を切り替えて(?) 遊んでいました。
ちなみに、画面の絵の右側には 「もうど ちぇんじ」 (モードチェンジ)の字が見えます。 プリキュアの影響でしょうか。
1週間近くもいた仙台を離れて帰るとき。 おじいちゃんが 「ピナたちがいなくなって、また寂しくなるなー」 と言っておりましたら、ピナが 「じゃあ、ピナがお土産を置いていってあげるね」 と言って作ったのがこれです。
これはなかなかすごいと思いました。 ちり紙を丸め、セロテープで押さえて、マジックで黒豆を描いて作った大福餅。 遠くから見たとき、私は本当の大福が置いてあるのかと思いました。
おじいちゃんに置いて行くべく、風呂敷に包んでいるところ。
最終的にこれにはジュンも参加して、大福におにぎりを加え、(それぞれのおにぎりの味を区別していたが、どれがどれだか忘れてしまった)、ちょっとしたお弁当が出来上がりました。
次は幼稚園の預かり保育で作ってきたかご。
先生の話では、放射状の骨組みだけがまず与えられて、それに自分で色を選びながら紐を巻いていって、このようなかごを作るとのことでした。
よく見ると、けっこう丹念に紐を巻き付けた後が分かって感心しました。
少し経ってから見たら、早速なんかガラクタ(こんなことを言ったらピナに怒られるか)を入れていました。
お財布・カード入れ。 手近にあった、セロハン紙のような材質のおりがみで作りました。
いつもながらピナの作品は色使いがアヴァンギャルド。
で、ちゃんと開きます。
止めるためのポッチが描いてあるのがご愛敬。
そして、中にはカード(ピナの話ではSuica)が入れてありました!
-- おまけ --
雨でサッカー練習が中止になってしまったジュン。
ピナが盛んにいろいろ作っているのを手持ち不沙汰そうに見ていましたが、図工の本を開いて、適当にあったものを作り出しました。1時間ほどかかって完成。 牛乳パック利用の船です。
ミソは、後ろに着いているスクリュー(と言うか、回転方向からすると外輪)。 ゴム動力でちゃんと回ります。風呂の時浮かべてみたら、ちゃんと前進しました。2秒くらいしか回転が持ちませんが・・・
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陸前高田行、およびお墓参り
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-08-19
私の父の実家は岩手県陸前高田市です。 つい先日までは、よほどあの辺の地理に詳しい人以外は知っている人がいない町でしたが、このたびの津波で、日本で一番有名な町の一つになってしまいました。 それはともかく、今回の訪問の目的はお盆の墓参りです。 去る8月15日に行ってきました。 実家のある場所は、行政区画としては陸前高田市内なのですが、津波で壊滅した市の中心部からはずっと離れた漁村の方であり、また家も相当な高台にあるので、幸いにも今回の津波の被害は免れました。 下の写真は、実家から少し離れた集落のものですが、近景の家々の屋根を見ると、それほどの被害には遭っていないことが分かります。 実家から車で10分ほどのところにあるお寺の墓地に早速お参りしました。 墓地内は、倒れた墓石が目立ちます。うちの墓所も、隣のお墓の墓石が倒れて寄りかかってきているという、大変に危険な状態にあったので、つっかえ棒などの応急処置がお寺によってなされていました。 お供え物、お線香などを準備します。 子どもたちは、こういうのを普段見慣れないので、興味津々でおじいちゃんの手先に注目しています。 それで、「おじいちゃん、おばあちゃん、こんにちわ。 みんな揃って来ました」 お墓への水まきは、水遊び好きの子どもたちが先を争ってやっていました。 ソワも、おじいちゃんに教わって、花やお供え物を並べ、線香を手向けます。 これで、今回の最大訪問目的を達しました。 墓所からお寺の本堂の方を見ましたら、こんな風景が見えました。 写真中央左半分には、家々が立ち並んでいます。 これに隣接する右半分にも、以前は同様に家がたちならんでいました。 これが、津波によってちょうど切り取られるように、右半分の地域だけさらわれてしまったという様子です。 これに類する光景は、ほかにも随所で見られました。 お墓参りに続いて、付近の親戚を訪ねました。 私の叔父の家。 津波の際、2階建ての家の1階部分はほぼ完全に水没したそうで、壁の天井近くに水位を物語る泥の痕がくっきりと残っていました。 それでも泥やら瓦礫やらを片付け、お仏壇の前に1枚だけ畳を敷いて、こんな状態にしてありました。 津波が襲った際の水圧で、壁の1カ所がブチ抜かれていました。 でも、このとおり物理的にはまだまだ復興と言うにはほど遠い状態ながら、地元の人々の生活や意識は震災前に復帰しつつあるようでした。 この翌日、壊滅した市内にある..
旅行やお出かけ
くまおとーさん
2011-08-19T23:18:55+09:00
それはともかく、今回の訪問の目的はお盆の墓参りです。 去る8月15日に行ってきました。
実家のある場所は、行政区画としては陸前高田市内なのですが、津波で壊滅した市の中心部からはずっと離れた漁村の方であり、また家も相当な高台にあるので、幸いにも今回の津波の被害は免れました。
下の写真は、実家から少し離れた集落のものですが、近景の家々の屋根を見ると、それほどの被害には遭っていないことが分かります。
実家から車で10分ほどのところにあるお寺の墓地に早速お参りしました。
墓地内は、倒れた墓石が目立ちます。うちの墓所も、隣のお墓の墓石が倒れて寄りかかってきているという、大変に危険な状態にあったので、つっかえ棒などの応急処置がお寺によってなされていました。
お供え物、お線香などを準備します。 子どもたちは、こういうのを普段見慣れないので、興味津々でおじいちゃんの手先に注目しています。
それで、「おじいちゃん、おばあちゃん、こんにちわ。 みんな揃って来ました」
お墓への水まきは、水遊び好きの子どもたちが先を争ってやっていました。
ソワも、おじいちゃんに教わって、花やお供え物を並べ、線香を手向けます。
これで、今回の最大訪問目的を達しました。
墓所からお寺の本堂の方を見ましたら、こんな風景が見えました。
写真中央左半分には、家々が立ち並んでいます。 これに隣接する右半分にも、以前は同様に家がたちならんでいました。 これが、津波によってちょうど切り取られるように、右半分の地域だけさらわれてしまったという様子です。
これに類する光景は、ほかにも随所で見られました。
お墓参りに続いて、付近の親戚を訪ねました。
私の叔父の家。 津波の際、2階建ての家の1階部分はほぼ完全に水没したそうで、壁の天井近くに水位を物語る泥の痕がくっきりと残っていました。
それでも泥やら瓦礫やらを片付け、お仏壇の前に1枚だけ畳を敷いて、こんな状態にしてありました。
津波が襲った際の水圧で、壁の1カ所がブチ抜かれていました。
でも、このとおり物理的にはまだまだ復興と言うにはほど遠い状態ながら、地元の人々の生活や意識は震災前に復帰しつつあるようでした。
この翌日、壊滅した市内にある親戚宅の跡地を探しに行ったのですが、こちらの方は残念ながら、あまりの破壊のひどさに目的を達せられませんでした。
現在の陸前高田市役所。 市の中心部から車で10分ほど行った高台に、この通りの仮設住宅のような状態で機能していました。
市内の様子については、私も個人的にいろいろと感じること、思うことがあり、それについてはまた改めて書きたいと思います。
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お盆に仙台へ帰省
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-08-18
14日から仙台に来ています。 我が家の子どもたち3人は、長時間公共交通機関に乗せると大変なことになってしまうので、ちょっと運転は疲れますがここのところしばらくはいつも車です。 5月の連休の時もそうでした。 ちょっと車の話になってしまうのですが、私のはもう12年使っているプジョー106です。 これを入手した当時、私はまだ独身でした。 だから全長3.7メートル、2ドアハッチバックのこの車でも十分(というか、一人で乗り回すには好適なサイズ)だったのですが・・・ 車を買い換える機を逸しつつ、子どもが3人になってもまだこれを使い続けています。 3人とも小さかったうちは、それでも大丈夫だったのですが、子どもたちも大きくなって、特にジュンは後席にひしめいて座っているのがかなりきつそうになってきました。 それに2ドアなので、後席のベビーシートへのソワの乗せ降ろしはなかなか大変です。 家内からも子どもたちからも、大きい車への買い換えを今までに何度か要求されたのですが、私はこの車が大変気に入っており、また愛着も思い出もぎっしり、という感じなのでそのままにしていました(もちろん出費の問題もあります)。 でもこのような状況になり、そろそろ限界かな・・・ と思うこの頃。 しかしとにかく、現実に今我が家にあるのはこの車しかないので、子どもたちを後席にびっしり詰め込んで出発しました。 ルートは5月の帰省時と同じく、都内 → 常磐道 → いわきから磐越道 → 郡山から東北道 → 仙台、 というルートにしました。 これは今回も正解で、途中常磐道の入り口で20分ほど混んだ以外は渋滞は全くありませんでした。 子どもたちは、狭い車内に閉じ込められているので、次々に休憩を求めてきます。 PAやSAで 「ちょっと遊んで行きた~~い」 なんてことにつきあっていると、あっという間に1時間や1時間半が過ぎてしまいます。 でもまあ、上記のように私の未練みたいなもので子どもたちをこの狭い車に押し込めているわけだし、なんて思って、途中ちょくちょく休憩を取りながら行きました。 5月の時と同じ、磐越道にある阿武隈高原SAの遊び場にて。 こんな調子で行ったので、朝9時半頃出発したのに、仙台に着いたのは夕方5時過ぎ。 渋滞はあまりありませんでしたから、車が走っている時間は5時間弱。 だから休憩時間が3時間以上。 とにかくうちの3人連れは余計な時間がかかりすぎます。 ち..
日常
くまおとーさん
2011-08-18T23:38:32+09:00
ちょっと車の話になってしまうのですが、私のはもう12年使っているプジョー106です。 これを入手した当時、私はまだ独身でした。 だから全長3.7メートル、2ドアハッチバックのこの車でも十分(というか、一人で乗り回すには好適なサイズ)だったのですが・・・ 車を買い換える機を逸しつつ、子どもが3人になってもまだこれを使い続けています。 3人とも小さかったうちは、それでも大丈夫だったのですが、子どもたちも大きくなって、特にジュンは後席にひしめいて座っているのがかなりきつそうになってきました。 それに2ドアなので、後席のベビーシートへのソワの乗せ降ろしはなかなか大変です。
家内からも子どもたちからも、大きい車への買い換えを今までに何度か要求されたのですが、私はこの車が大変気に入っており、また愛着も思い出もぎっしり、という感じなのでそのままにしていました(もちろん出費の問題もあります)。 でもこのような状況になり、そろそろ限界かな・・・ と思うこの頃。
しかしとにかく、現実に今我が家にあるのはこの車しかないので、子どもたちを後席にびっしり詰め込んで出発しました。
ルートは5月の帰省時と同じく、都内 → 常磐道 → いわきから磐越道 → 郡山から東北道 → 仙台、 というルートにしました。 これは今回も正解で、途中常磐道の入り口で20分ほど混んだ以外は渋滞は全くありませんでした。
子どもたちは、狭い車内に閉じ込められているので、次々に休憩を求めてきます。
PAやSAで 「ちょっと遊んで行きた~~い」 なんてことにつきあっていると、あっという間に1時間や1時間半が過ぎてしまいます。
でもまあ、上記のように私の未練みたいなもので子どもたちをこの狭い車に押し込めているわけだし、なんて思って、途中ちょくちょく休憩を取りながら行きました。
5月の時と同じ、磐越道にある阿武隈高原SAの遊び場にて。
こんな調子で行ったので、朝9時半頃出発したのに、仙台に着いたのは夕方5時過ぎ。
渋滞はあまりありませんでしたから、車が走っている時間は5時間弱。 だから休憩時間が3時間以上。 とにかくうちの3人連れは余計な時間がかかりすぎます。
ちょっと遅くなってしまったので、この日の夜は近くのスーパーで買ってきたお弁当ということになってしまいました。
でもおじいちゃんが孫たちに曰く、「普段はだーれもいなくて、物音一つしないような家なんだから、急に騒がしくなって、お盆で来ているホトケさんたちも、一体これは何が起こったんだって思っているよ、きっと」 なんて言って喜んでおりました。
食事の後、庭に出て迎え火をたきました。 実際に火が燃えているのを見ることが少ないこどもたちは、とても珍しげに、ゆらゆらと揺れる火を見つめていました。
これを書いている今日はもう18日なので、帰省して以来これまで、
15日・・・ 陸前高田の父の実家へ、夕方墓参り
16日・・・ 陸前高田の親戚を訪問、津波の被災地を通過
17日・・・ 松島水族館へ
18日・・・ 仙台の家の近辺をドライブ
なんてことがありました。
これらを順次、これから少しずつ書いていきたいと思います。
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ピナの最近の作品より
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-08-12
前からそうですが、ピナは最近とくにお絵かきや工作を熱心にやります。 そんなピナの最近の作品から抜粋。 おかあさんの絵。 まあ、どう見ても家内に似てるとは思いませんが、奇抜な色づかいが印象的。 よく見ると、紫色に塗った髪(ちなみに家内は髪を染めてません)の先の方が切ってあります。 これは、「おかあさんが床屋さんで髪を切ってもらった」ことを表すんだそうです。 次は猫の家族。 まず子猫。(ピナとしては、「自分」ということらしい) 次におかあさん猫。 最後はおばあちゃん猫。 おなかの中にネズミがいるというのが、何ともブラック。 どれもこれも、顔がジグソーパズルやパッチワークです、まるで。 ピナとしては特にこれに深い意味があるわけではなく、とにかくきれいな色に塗りたいから、というのが理由のようでした。 また足が5本ある猫がいますが、ピナはそんなことには一向にお構いなし。 それより、足に塗った模様を見てくれとのこと。なんでもソックスをはいているんだそうです。 でも、出来映えはともかく、こういうことに集中してくれるのはいいことだと思うので、これからも応援してあげたいと思います。 ちなみに今日ピナは、おかあさんから「落書きセット」(6色の色鉛筆と文庫サイズの雑記帳がセットになったもの。どこにでも持ち歩ける)を買ってもらったのでした。
子どもたち
くまおとーさん
2011-08-12T22:16:34+09:00
そんなピナの最近の作品から抜粋。
おかあさんの絵。
まあ、どう見ても家内に似てるとは思いませんが、奇抜な色づかいが印象的。
よく見ると、紫色に塗った髪(ちなみに家内は髪を染めてません)の先の方が切ってあります。 これは、「おかあさんが床屋さんで髪を切ってもらった」ことを表すんだそうです。
次は猫の家族。
まず子猫。(ピナとしては、「自分」ということらしい)
次におかあさん猫。
最後はおばあちゃん猫。
おなかの中にネズミがいるというのが、何ともブラック。
どれもこれも、顔がジグソーパズルやパッチワークです、まるで。 ピナとしては特にこれに深い意味があるわけではなく、とにかくきれいな色に塗りたいから、というのが理由のようでした。
また足が5本ある猫がいますが、ピナはそんなことには一向にお構いなし。 それより、足に塗った模様を見てくれとのこと。なんでもソックスをはいているんだそうです。
でも、出来映えはともかく、こういうことに集中してくれるのはいいことだと思うので、これからも応援してあげたいと思います。 ちなみに今日ピナは、おかあさんから「落書きセット」(6色の色鉛筆と文庫サイズの雑記帳がセットになったもの。どこにでも持ち歩ける)を買ってもらったのでした。
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岩波新書 「ラテンアメリカ十大小説」
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-08-10
TÍTULO: Un Libro "Las Diez Novelas Seleccionadas de Latinoamérica" 以前にこのブログにも登場願った友人のノリくんに勧められて、岩波新書「ラテンアメリカ十大小説」(木村榮一 著) を読みました。 Recientemente, mi amigo Nori me recomendó leer un libro titulado "Las diez novelas seleccionadas de Latinoamérica", que se escribe por un traductor japonés, especialista de literatura española, Eiichi Kimura. この本が扱うのは、小説と言っても20世紀以降の現代小説のことであり、また紹介されている10人の作家も、北はメキシコから南はチリ・アルゼンチンまで、中南米全体にわたっています。 この本の前書きには、ラテンアメリカ現代小説は 「きわめて前衛的なエクリチュールの手法を用いながらも、小説の原点である”物語”が決して失われていない」 ことが特徴であると述べられています。 私はもともとは仕事の必要上から、そして今はほとんど完全に趣味としてスペイン語の勉強を続けて(諦めきれずに)いますが、そうした者にとって、やはりその言語で書かれた小説や文学作品を読んで感動したいというのは究極の願い、目標でしょう。 この本にも出てくるバルガス=リョサ、ボルヘス、ガルシア=マルケスなどという小説家は、私もその名前や代表作の題名くらいは聞いたことがあります。 でも、やはり私の語学力ではやはりとりつくことすらままならず、読んでみたいという願望だけで、まるで登りたい山をいつも遠くからそのシルエットだけ眺めるような感じでした。 そんな私にとって、この本は、「やっぱり諦めずに、いつか読んでやろう」という気持ちをかき立てる効用がありました。 En este libro se presentan las novelas contemporaneas latinoamericanas de siglo 20. Los autores que se presentan distribuyen toda la latinoamérica, de México a Chile y Argent..
読書
くまおとーさん
2011-08-10T18:11:22+09:00
以前にこのブログにも登場願った友人のノリくんに勧められて、岩波新書「ラテンアメリカ十大小説」(木村榮一 著) を読みました。
Recientemente, mi amigo Nori me recomendó leer un libro titulado "Las diez novelas seleccionadas de Latinoamérica", que se escribe por un traductor japonés, especialista de literatura española, Eiichi Kimura.
この本が扱うのは、小説と言っても20世紀以降の現代小説のことであり、また紹介されている10人の作家も、北はメキシコから南はチリ・アルゼンチンまで、中南米全体にわたっています。 この本の前書きには、ラテンアメリカ現代小説は 「きわめて前衛的なエクリチュールの手法を用いながらも、小説の原点である”物語”が決して失われていない」 ことが特徴であると述べられています。
私はもともとは仕事の必要上から、そして今はほとんど完全に趣味としてスペイン語の勉強を続けて(諦めきれずに)いますが、そうした者にとって、やはりその言語で書かれた小説や文学作品を読んで感動したいというのは究極の願い、目標でしょう。 この本にも出てくるバルガス=リョサ、ボルヘス、ガルシア=マルケスなどという小説家は、私もその名前や代表作の題名くらいは聞いたことがあります。 でも、やはり私の語学力ではやはりとりつくことすらままならず、読んでみたいという願望だけで、まるで登りたい山をいつも遠くからそのシルエットだけ眺めるような感じでした。
そんな私にとって、この本は、「やっぱり諦めずに、いつか読んでやろう」という気持ちをかき立てる効用がありました。
En este libro se presentan las novelas contemporaneas latinoamericanas de siglo 20. Los autores que se presentan distribuyen toda la latinoamérica, de México a Chile y Argentina.
En el prólogo de este libro el autor dice que el carácter de esas novelas es que mantienen bien "relato", aunque utilizan un metodología de escritura muy de vanguardia.
Como estudiante de español, deseaba siempre que lea novelas escritas en este idioma. Pero es demasiado difícil a mí actual.
Pero este libro me anima que intente a leerlas.
この本に紹介されている作家のうち、私はキューバのアレホ・カルペンティエルという作家とその作品に大変興味を持ちました。
私はもう何年もスペイン語を(細々とながら)勉強しているにもかかわらず、この作家の名前を聞いたことがありませんでした。 しかし、カルペンティエルは現代ラテンアメリカ文学を語る上で欠かせない一人であるばかりでなく、キューバでは彼の名を冠した文学賞まであるということで、こんな人の名前すら聞いたことがなかった自らの不勉強と視野の狭さを恥じるばかりでした。
Especialmente, me interesa mucho el autor cubano Alejo Carpentier. Desgraciadamente no sabía su nombre ni siquiera sus obras, aunque he aprendido español muchos años. Pero fue asustoso a mí de que él es un autor inprescindible para contar la literatura contemporanea latinoamericana, y en Cuba, hay un premio de literatura que pone su nombre.
この作家の経歴や文章スタイルの概論などについてはこの本をお読みいただくとして、この中で特に詳しく紹介されている小説「失われた足跡」(1953) という作品に私はことさらに興味を引かれました。
『あるヨーロッパの音楽家が、ひょんな事からオリノコ川の支流を遡って、上流の未開集落に行くことになる。 ところが、そこは不思議なところで、川を遡るにつれて時間も一緒に遡り始め、最終的にその集落に着いたときには、そこにはずっと昔の世界が存在していた。 彼はしばらくそこにとどまるが、ある日爆音をとどろかせて一機の飛行機がその近くに不時着する。それは行方不明になっていた彼を捜索しに来た一行であった。 彼はいったんその飛行機に乗り込んで文明社会に戻るが、またその集落に戻りたくなってオリノコ川を遡り始める。しかし、その集落に続く支流の入り口はついに見つからなかった。』
本書にはこんなあらすじが紹介してあります。 そして、摩訶不思議なこの時間の逆行という要素が、カルペンティエルという作家の中で如何に重要なものであるか、またそうなるに至った背景が説明され、著者はカルペンティエルのことを「時間の魔術師」と呼んでいます。
La descripción sobre su obra "Los pasos perdidos (1953)" me interesa mucho.
El autor Eiichi Kimura presenta el retrato de esta obra, y también explica su vida, bibliografía y estilos literarios de Carpentier. Kimura dice que el cambio de tiempo muy raro es uno de los elementos importantes en las obras de Carpentier, y le llama como "el mágico de tiempo".
一応、以前に集英社から翻訳が出ていたようなのですが現在は絶版。 オークションなどには出ていますが、稀覯本に属するらしく大変なプレミアムがついてしまっています。 これではおそらく、神保町を探し回っても同じでしょう。
そして何より、著者の木村氏曰くの、「手法が前衛的なのに”物語”が失われていない」というのは、この小説に関して具体的にはどうなのか、ということを実感するにはやはり原書に当たるしかないように思います。
「前衛的なエクリチュール」とはこの小説ではどういうことなのか。 上記のあらすじでは語りきれない、この小説の物語とはいったいどんなものなのか。
・・・ 勉強をがんばって、いつの日かなんとかスペイン語でこれを読破してみたい、というのがこの「十大小説」の読後感でした。
Se publicó antes una traducción japonesa, pero ahora no se vende. Y sobre todo, para saber la escritura real de su obra, creo que hay que leerla en la lengua original, español.
Despues de leer "Diez novelas", me sintió que quiero leer esta obra algún día en español!
後日、知っているスペイン語関係の書店を2軒回りましたが、残念ながらどちらにもこの作品を収めた本はありませんでした。 なんか諦めきれない感じで、神保町のイタリア書房にあった、カルペンティエルの別の作品集を買ってしまいました!
La busqué en librerías en Tokio pero no pude conseguir. En una librería cerca de mi trabajo, descubrí un libro de Carpentier, pero la obra "Los Pasos" no se incluía en este libro. Voy a intentar leer este libro para el día que pueda conseguir "Los Pasos" !!
この本に収められている作品も、「十大小説」では簡単にですが紹介されていました。「失われた足跡」を入手した日のために、これを読んで予備勉強しようか・・・
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・・・・・ でも1ページ目の1行目から、やっぱり難しすぎました ・・・
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子供たちのピアノ発表会
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-08-04
先週、ジュンとピナが通っているピアノ教室の発表会がありました。 二人が通っているのは、横浜市内のご自宅でピアノ教室をやっておられる先生のところで、毎年この時期に、全門下生参加でホールを借り切っての発表会をやっています。 総勢約30名です。 登場の順番は年齢が若い順というのが慣例になっていますが、そうすると今年はピナが1番手ということになりました。 ピナの演奏。 ピアノ練習曲集から、1曲目「木馬の兵隊さん」、2曲目「クリスマスの朝」。 「木馬」のほうは先生の伴奏付き、「クリスマス」の方はまったくの独奏です。 ピナは習い始めて早くも3年目ですが、この発表会には今回が初登場です。 ジュンのレッスンにいつもくっついて行っていたので、それを見ながら「ピナも習いた~~い」ということになり、早すぎるとは思いましたが、天才ピアニストの幼少期よろしく3歳から習い始めました。 でも手が小さいので音階を弾くこともままならず、結局曲らしい曲を弾けるようになったのはようやく今年あたりから。 ということで、今回やっと発表会デビューを果たせました。 次にジュンの演奏。 年齢順でジュンは4番手でした。 4歳半から習い始めたジュンは、発表会もこれで4回目。 まず1曲目は練習曲集から 「思い出」。 さてジュンの2曲目は、ジュン自らが挑戦を宣言し、練習に励んだモーツァルト。 ソナタ第11番イ長調 K.331 の第1楽章主題部。 この曲に挑戦することになったのは、ジュンが学校の音楽の時間に聞いてきたモーツァルトの「トルコ行進曲」がきっかけでした。 ジュンはその曲がとても気に入り、家でも聞きたいというものだから、私が持っていたCDをかけてあげました。 その際、「この行進曲は、あるソナタの第3楽章であり、ちなみにその第1楽章とはこんな曲だよ」と説明して第1楽章も聞かせてあげました。 するとジュンは、「トルコ行進曲はまだ難しくてムリだけど、この第1楽章なら何とかなるかも」と発起し、先生に挑戦したい旨を直訴。 先生は「それじゃあがんばってみよう!」 と言ってくださり、それで今回の発表となったわけでした。 先生は、できればこの主題部に続いて変奏部をどれか一つやらせたいというご意向のようでしたが、やはり現在のジュンの力量では荷が重いと断念。 それで「思い出」を前座として、真打ちのモーツァルトというプログラムにしてくださいました。 まあそれにしても、小学校2年..
子どもたち
くまおとーさん
2011-08-04T00:19:03+09:00
二人が通っているのは、横浜市内のご自宅でピアノ教室をやっておられる先生のところで、毎年この時期に、全門下生参加でホールを借り切っての発表会をやっています。 総勢約30名です。
登場の順番は年齢が若い順というのが慣例になっていますが、そうすると今年はピナが1番手ということになりました。
ピナの演奏。
ピアノ練習曲集から、1曲目「木馬の兵隊さん」、2曲目「クリスマスの朝」。
「木馬」のほうは先生の伴奏付き、「クリスマス」の方はまったくの独奏です。
VIDEO
ピナは習い始めて早くも3年目ですが、この発表会には今回が初登場です。
ジュンのレッスンにいつもくっついて行っていたので、それを見ながら「ピナも習いた~~い」ということになり、早すぎるとは思いましたが、天才ピアニストの幼少期よろしく3歳から習い始めました。
でも手が小さいので音階を弾くこともままならず、結局曲らしい曲を弾けるようになったのはようやく今年あたりから。 ということで、今回やっと発表会デビューを果たせました。
次にジュンの演奏。 年齢順でジュンは4番手でした。
4歳半から習い始めたジュンは、発表会もこれで4回目。
まず1曲目は練習曲集から 「思い出」。
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さてジュンの2曲目は、ジュン自らが挑戦を宣言し、練習に励んだモーツァルト。
ソナタ第11番イ長調 K.331 の第1楽章主題部。
VIDEO
この曲に挑戦することになったのは、ジュンが学校の音楽の時間に聞いてきたモーツァルトの「トルコ行進曲」がきっかけでした。 ジュンはその曲がとても気に入り、家でも聞きたいというものだから、私が持っていたCDをかけてあげました。
その際、「この行進曲は、あるソナタの第3楽章であり、ちなみにその第1楽章とはこんな曲だよ」と説明して第1楽章も聞かせてあげました。
するとジュンは、「トルコ行進曲はまだ難しくてムリだけど、この第1楽章なら何とかなるかも」と発起し、先生に挑戦したい旨を直訴。 先生は「それじゃあがんばってみよう!」 と言ってくださり、それで今回の発表となったわけでした。
先生は、できればこの主題部に続いて変奏部をどれか一つやらせたいというご意向のようでしたが、やはり現在のジュンの力量では荷が重いと断念。 それで「思い出」を前座として、真打ちのモーツァルトというプログラムにしてくださいました。
まあそれにしても、小学校2年生で自分の弾きたい曲を宣言し、練習を重ねてこの程度の発表まで持ってこられたことは、我が子ながらよくやったものだと感心しました。
ジュンが毎日何度もこの曲を練習で弾くので、ここのところ我が家の中は、いつもこの曲のメロディーであふれているような状態になっていました。 まだ2歳のソワまでもが、遊んでいるときなどに「ふーんふふん、ふーんふん、ふーんふふん、ふーんふん」なんて感じで鼻歌を歌っていたりします。 2歳児が鼻歌でモーツァルト・・・ 英才教育やっているんじゃないかと間違われそうです。
ところでこの発表会に使うピナの衣装をどうしようか、直前まで準備していませんでした。
結局、同じピアノ教室の小学生のお姉さんが、以前に発表会で使った衣装をピナに譲ってくれるという嬉しいことがあり、今回は有り難くそれを使わせていただきました。(そのお姉さんには、ついでに来年の分の衣装まで頂いてしまいました)
また髪は、横浜の家に住んでいる私の妹(ピナから見ればおばさん)が、当日結ってくれました。
なんか想像していたよりも本格的な出来映えになり、ピナは嬉しくて仕方なかったようです。
前からの様子。
後ろから。
ところでソワだけは、我関せずと言う様子でこんな感じ。
先生や、親切なお姉さんがたのおかげで、よい思い出となる発表会を終えることが出来ました。
最後はステージで記念撮影のあと、ステージの花を全員にお裾分け。
また来年に向けて楽しくやってほしいと思います。
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連休中の仙台にて
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-06-01-1
TITULO: En Sendai, los primeros de mayo 震災の後片付け手伝いに行った、仙台の父の家でしたが、数日にわたる滞在となりましたので、子供たちをときどき遊びに連れ出しました。 Mientras estábamos en Sendai en los primeros de mayo, llevé unas veces los niños a parques o campos cerca de la casa. 私はもともとはここら辺に住んでいたわけですが、現在では、生まれてからこれまでの時間の中で、一番長く住んでいるところは東京とその周辺と言うことになってしまいました。 それで当時のことや家の周りの様子なんかは、わざわざそこに出かける事がなければあまり思い出すこともなくなってきました。 でも、こうして子供たちをつれて遊び場を巡っていますと、仙台なんかは以前より大都市になったとは言っても、ほんのちょっと町から外れるとすぐにこうした自然豊かなところにやってこられます。 やはり元来がこういうところで育ったせいかもしれませんが、本当にこういうのはいいなと思いました。Alrededor de Sendai, quedan muchos lugares o areas con naturaleza. Estoy descansado de estar y mirar esos lugares. 仙台あたりまで来ると、そこら辺に何気なく立っている木の種類なんかも、東京あたりとは違ってきます。 この日行った場所には、ダケカンバがまことに美しい新緑の姿を見せていました。Los árboles en Sendai son diferente de los en Tokio. Era primavera temprana, podía mirar las hojas verdes que acababan de nacer. 父の家からそれほど遠くないところには、大昔、氷を貯蔵しておいたと言われている氷室の跡があります。 今では、ただの山の中に大きな穴があいている、くらいにしか見えませんが。En un bosque cerca de la casa de mi padre. Esto es una ruina de un almacén de hielo, que se utilizaban h..
日常
くまおとーさん
2011-06-01T20:02:07+09:00
震災の後片付け手伝いに行った、仙台の父の家でしたが、数日にわたる滞在となりましたので、子供たちをときどき遊びに連れ出しました。
Mientras estábamos en Sendai en los primeros de mayo, llevé unas veces los niños a parques o campos cerca de la casa.
私はもともとはここら辺に住んでいたわけですが、現在では、生まれてからこれまでの時間の中で、一番長く住んでいるところは東京とその周辺と言うことになってしまいました。 それで当時のことや家の周りの様子なんかは、わざわざそこに出かける事がなければあまり思い出すこともなくなってきました。
でも、こうして子供たちをつれて遊び場を巡っていますと、仙台なんかは以前より大都市になったとは言っても、ほんのちょっと町から外れるとすぐにこうした自然豊かなところにやってこられます。 やはり元来がこういうところで育ったせいかもしれませんが、本当にこういうのはいいなと思いました。
Alrededor de Sendai, quedan muchos lugares o areas con naturaleza. Estoy descansado de estar y mirar esos lugares.
仙台あたりまで来ると、そこら辺に何気なく立っている木の種類なんかも、東京あたりとは違ってきます。
この日行った場所には、ダケカンバがまことに美しい新緑の姿を見せていました。
Los árboles en Sendai son diferente de los en Tokio. Era primavera temprana, podía mirar las hojas verdes que acababan de nacer.
父の家からそれほど遠くないところには、大昔、氷を貯蔵しておいたと言われている氷室の跡があります。 今では、ただの山の中に大きな穴があいている、くらいにしか見えませんが。
En un bosque cerca de la casa de mi padre. Esto es una ruina de un almacén de hielo, que se utilizaban hace varios cien años.
ちょっと歩くといろんな物が落ちています。
A los niños les gustan varias cosas de natura.
こんなことができるのもこの辺りならでは、です。
今回の帰省中、ジュンにとって最大の嬉しい出来事は、震災ですっかり先延ばしになっていた(実に1ヶ月以上も!)、誕生日プレゼントを、おじいちゃんから買ってもらったことでしょう。
今のジュンのことなので、プレゼントはもちろん天体望遠鏡です。
Mi primer hijo Jun consiguió un regalo para su cumpleaños, pero por el terrémoto, ya ha pasado más de un mes despues de eso. Ahora está desempaquetando.
こうして、初めて包装を開けるときのわくわくした気持ちは、私も小さい頃、プレゼントなんかをもらうと良く抱いたものだったなー と懐かしい気持ちになりました。 こういう気持ちだけは誰しも、いつでも変わらないんじゃないかと思います。
2年生になったジュンは、説明書を見ながら一人でここまで組み上げました。
Jun pudo asemblarlo por si mismo, sin ayuda de otros.
ただ惜しむらくは、この日も、またこの翌日も、仙台地方は夜の天気に恵まれず、結局帰るまでこの望遠鏡は夜の出番が全くなく、ついに仙台滞在中は星の初観測は果たせずに終わってしまいました。・・・ 残念!
Pero desgraciadamente, hacía mal tiempo todas las noches y en fin no podía observar las estrellas mientras estaba en Sendai !
でも、やっぱり手元にあると何か見てみたいもの。
ピナが部屋に置いておじいちゃんをのぞいてみたり・・・
Entonces Hina juega con el telescopio dentro de la casa.
結局、東京に帰る日の午前中、望遠鏡を近くの高台に持って行って風景をのぞいてみようということになりました。
Como no podía observar estrellas, intentó observar paisaje.
この望遠鏡でどれくらい見えるか、ということですが・・・
下の写真は、この高台から見える遠景です。 遠くの山の上に観音像が見えます。
Como se ven con este telescopio. Mire por favor el gran Buda a la montaña...
その観音様のお顔に望遠鏡を向けてみると・・・
と、こんな感じでした。
実は後日、念願かなって初めてこの望遠鏡で夜空をのぞいたとき、ボンヤリとではありますが土星の輪が見えました。
おまけ:
仙台の父の家には、古いピアノがあります。 私の兄と妹がしばらくピアノをやっていたので、当時はかなり使い込んだはずのものなのですが、二人とも家にいなくなってからは誰も弾く人がいないので、なんと30年以上も、「家の中にあるだけ」で音を出すことなく放置されていました。
今回の帰省中、ジュンが「発表会の練習をしなくちゃ」と言って、持ってきた楽譜を取り出して弾き始めました。 このピアノにとっては、実に30年ぶりの歌声です。
その発表会というのは7月末なので、演奏の方はまだまだ未完成ですが、モーツァルトのソナタで30年の沈黙からピアノを目覚めさせたというのは、なんか素敵なことだと思いました・・・
Por favor lea el comentario en YOUTUBE.
http://youtu.be/TA9NnQxz8og
VIDEO
練習がまだこの段階の様子を載せられるのは、おそらくジュンにとっては不本意だろうと思いますが、7月の発表会のことをここに書くときには、しっかりとした演奏を載せられるように、練習をがんばって欲しいと思います。
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ジュン、「くり下がり引き算」 でつまずく
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-05-30-1
先週の土曜日、ジュンの小学校で 「土曜日授業公開」 なる参観日がありました。 4月に一度予定されていたのが、震災の影響で延期となったものです。 ジュンが2年生になってから私は学校を訪れたことがなく、2年生の教室が学校の中のどこにあるかも分からないという状態だったので、朝から出かけて、授業の様子を見てきました。 学校内は写真撮影がいっさい禁止だったので、ここに様子を載せられないのが残念です。 参観が土曜日とあって、私みたいな父親連もたくさん来ていました。 当日の時間割は1時間目が国語、以下4時間目まで 音楽、算数、また国語、という順番でした。 ですが当日、私にとっての一番の見もの(?)はやはり、3時間目の算数でした。 2年生も5月末に入って、授業では「くり下がりのある2桁引き算の筆算」が行われていました。 「72-45」とか、「63-28」みたいなやつです。 すでに1,2回授業があったらしく、まず筆算の仕方の復習から入り、その後、先生が黒板に問題を10問ほど書き連ねます。 そして、適当に生徒を指名して前に出てこさせ、黒板にその計算と答えを書かせるというところが始まりました。 さて、ジュンですが・・・ 「では第5問は、ジュンくん。」--- ああ、当たってしまった。 呼ばれた生徒たちは次々と黒板に出て行って、さっさと計算を始め、横に引かれた線の下に答えを書いていきます。 ところが ・・・ いつまで経っても、ジュンが黒板のところに現れません。 見ると、ジュンは自分の机のところで貧乏揺すりをしながら、「え~~、 わかんない・・・ できない・・・」とつぶやいているではありませんか!! 結局、強制的に黒板のところに呼び出されたジュンは、先生に助言をしてもらいながら何とかその場は許してもらい、自分の席に帰りました。 その後もジュンは調子が悪く、問題を出される度に、補助の先生がジュンの机に付きっきりで面倒を見るという光景が現出しました・・・ こういう光景を見てしまったからには、やはり父親としては少し助けてあげないわけにはいかないでしょう。 まあ、こうなるまで親が気付かなかったことを恥じ、反省したということもあります。 というわけで、その日の晩、ジュンを相手に少し算数の先生をやってみました。 ******** *********** *********** *********** ************* 72..
子どもたち
くまおとーさん
2011-05-31T00:08:14+09:00
4月に一度予定されていたのが、震災の影響で延期となったものです。 ジュンが2年生になってから私は学校を訪れたことがなく、2年生の教室が学校の中のどこにあるかも分からないという状態だったので、朝から出かけて、授業の様子を見てきました。
学校内は写真撮影がいっさい禁止だったので、ここに様子を載せられないのが残念です。
参観が土曜日とあって、私みたいな父親連もたくさん来ていました。
当日の時間割は1時間目が国語、以下4時間目まで 音楽、算数、また国語、という順番でした。
ですが当日、私にとっての一番の見もの(?)はやはり、3時間目の算数でした。
2年生も5月末に入って、授業では「くり下がりのある2桁引き算の筆算」が行われていました。
「72-45」とか、「63-28」みたいなやつです。
すでに1,2回授業があったらしく、まず筆算の仕方の復習から入り、その後、先生が黒板に問題を10問ほど書き連ねます。 そして、適当に生徒を指名して前に出てこさせ、黒板にその計算と答えを書かせるというところが始まりました。
さて、ジュンですが・・・
「では第5問は、ジュンくん。」
--- ああ、当たってしまった。
呼ばれた生徒たちは次々と黒板に出て行って、さっさと計算を始め、横に引かれた線の下に答えを書いていきます。
ところが ・・・ いつまで経っても、ジュンが黒板のところに現れません。 見ると、ジュンは自分の机のところで貧乏揺すりをしながら、「え~~、 わかんない・・・ できない・・・」 とつぶやいているではありませんか!!
結局、強制的に黒板のところに呼び出されたジュンは、先生に助言をしてもらいながら何とかその場は許してもらい、自分の席に帰りました。
その後もジュンは調子が悪く、問題を出される度に、補助の先生がジュンの机に付きっきりで面倒を見るという光景が現出しました・・・
こういう光景を見てしまったからには、やはり父親としては少し助けてあげないわけにはいかないでしょう。
まあ、こうなるまで親が気付かなかったことを恥じ、反省したということもあります。
というわけで、その日の晩、ジュンを相手に少し算数の先生をやってみました。
******** *********** *********** *********** *************
72-45 という計算を考えます。
ここで被引数の72ですが、ジュンみたいなのは、この数字の本質的な理解がそもそも出来ていないのです。
「ななじゅうに」 という読み方のとおり、ここでは数字「2」はこのまま2を表していますが、数字「7」は、「なな」ではなく「ななじゅう」を表しています。
ただ単に数字が二つ並べられただけなのに、その表す実際の数値が、書かれる位置によってこのように異なっているという「位取り記数法」の理解は、これを初めて学ぶ子供たちにとって、実は大変に難しいことのようなのです。
数学者の矢野健太郎先生は、数学教育に携わったご自身の経験を書いた著書の中で;
「じゅうご」と書いてごらん、と命じられた子供(小学生)が、「" じゅう " は10、 " ご" は5、 だから " 105 " だと書いたら、先生に違うって怒られたんだ」 と答えた という例を挙げ、この子に正しい表記法を分かってもらうのにどれほどの長い時間と練習が必要だったかを書いておられます。 そして、位取り記数法の歴史を解説され、この記数法は "数を数える" という人間の自然な感覚とはかけ離れた抽象的な概念であること、従ってこの習得には正しい教授法による正確な理解と、慣れのための多数の練習が必要であることを力説しておられます。
そして、実は我が長男ジュンも、この「105」の例の子にかなり近い状態であったことが、図らずも今回の学習で明らかになりました。
「くり下がり引き算」の要点は二つです。
(i) 十の位の数から10を抜き出し、これを一の位の数に加える。
(ii) 10を抜き出された十位の数は、抜き出された分、その数字を1だけ小さくする。
あと強いて言えば、引数についても、一位の数と十位の数を分けて引く ( 45を引くならば、5 を引いてから 40 を引く、と考える)という事でしょうか。
言葉で書いてしまえばなんてことはないようですが、この「10を抜き出す」とか「抜き出した分だけ小さくする」などというのは、ジュンみたいに「位取り」の基本が理解できていない子にとってはなかなか侮れないシロモノです。
したがって、72 を 「12 + 60 」 という形に分解することから始めます。
試みにジュンにこれをやらせてみますと、「位取り記数法」が分かっていないことがたちまち露呈します。
下は、これをやったジュンの計算経過です。
72から12を抜き取るところまでは一応出来ています。 しかし、次の「60」を求めるために、
まず 12に10を足して 22。
20を足して 32。
これを10ずつ繰り返してようやく、
60を足して 72 にたどり着きました。
なぜこうなってしまうのか?
ここで考えられることは一つです。 ジュンには、72の十位の「7」が、「ななじゅう」ではなくて、「なな」にしか見えていないのです。 ですから、「12 に 60 を足すと、十の位どうし、1 と 6 とが足されて 7 になり、最終的に 72 になる」 という風に考えが行かないのです。
この状態では、「くり下がり引き算」など出来るわけがありません。
矢野先生の本では、マッチ棒を10本ずつ束ねて十進位取り記数法を理解させる試みが載っていますが、さすがに2年生を相手にそこまでは戻れないので、ジュンにはとにかく計算をやってもらうことにしました。
45 = 15 +
76 = 16 +
38 = 18 +
84 = 14 +
・・・・・・・・
・・・・・・・・
こんな計算問題を適当に20問くらいこしらえて、延々とやらせました。
ジュンはべそをかきながら、上に書いたような時間のかかる方法で、30分ほどもかかって何とかやり遂げました。
それで自分のやった答えを見てもらいます。 20問もやると、さすがにジュンのような子でも、ある法則性に気付き始めます。
45 → 30
76 → 60
38 → 20
84 → 70
それぞれ15, 16, 18, 14 という数を抜き出した後の数字は、十位の数が、「もとの数」の十位の数よりも1だけ小さくなっています。
これに気付いたところで、今度はこの事実だけを手がかりに答えを出してみるように促します。 先ほどと同じように、
35 = 15 +
89 = 19 +
41 = 11 +
66 = 16 +
・・・・・・・・
・・・・・・・・
などと問題を出し、上で見つけた法則性を機械的に適用して答えを書いてみるように言いますと、今度はものの見事に、20問を3分足らずで全問正解です。
ここですかさず、
(i) 「15」の十位数「1」は、実は「1」ではなく「10」を表しており、したがって
「15」とは「10 + 5 」ということである。
(ii) だから、「35」からこの「1」が引かれると、その十位は2、すなわち20になる。
と追い打ちをかけて、理解の完全を期します。
理解の確認のため、次の問題もやらせました。
35 = 25 +
89 = 39 +
41 = 21 +
66 = 46 +
・・・・・・・・
・・・・・・・・
最初は少し戸惑っていましたが、数問の戸惑いを突破すると、後は機械的にどんどん行きました。
「十進位取り記数法」が一応理解できました(「一応」を卒業するには、あとは練習を通じて慣れることでしょうね)。
これで「くり下がり」の最大の関門を突破しました。
あとは引数の方ですが、これは一位と十位とに分けて順番に引き算をしてもらいます。
このように引数を分けたり、順番に引くなどの計算をして良いのか、という質問に対して数学的に厳密に答えるためには、本来は数式におけるカッコの使い方、正負の数の計算までをも持ち出さなくてはなりません。 このことを見ても、「くり下がり引き算」が実は高度な内容を含んでいることが窺い知れます。
ジュンにもこのことを聞かれかけましたが、相手が小学校2年生では、ここは常識的に許されるという説明で前に進むしかないようです。
それで最初の問題 ( 72-45= ) の答えに至る道筋ですが、
(i) 72 を 12 と 60 とに分けたあと、12 からは 5 を、60 からは 40 を、それぞれ引く。
(ii) 上の答えは最初が 7、次が 20 であるから、この二つを合わせた 27 が答えになる。
この手順を、ジュンにはこんな風に書いてもらいました。
最初は 12+60 であったのを、ここでは 60+12 にしています。こうしないと、答えの数字と位が逆になってしまって見にくいので。 そしてここでも実は、さりげなく 「加法の交換法則」 を使っています。
ようやく1問完成です。
あとは理解しているかどうかを試すためと、慣れるために、たくさん練習をする必要があろうかと思いますが。
ちなみに、授業参観で見てきた算数の授業では、くり下がり引き算の計算方法について(教科書どおり、ということですが)以下のような手順が教えられていました。
【 例: 72-45 】
(1) 一位を引き算しようとしても、2から5は引けない。
(2) だから、十位の 7 から 10 を借りてきて、一位の 2 を 12 とし、
十位の 7 の方は貸した分だけ 1 減って 6 となる。
(3) 12 から 5 を引いて 7。 (一位の計算)
(4) 6 から 4 を引いて 2。 (十位の計算)
(5) だから答えは 27。
そしてこれを行うために、計算式中に下のような書き込みを行うように指示がされています。
伝統的な「十の位から 10 を借りてくる」という説明です。
ただ、この「借りる」ということは必然的に「借りた結果がどうなるか」に対する回答を求めますから、最終的に上の (2) の説明が理解できるためには、「十進法における位取り記数法」の意味と用法とがきちんと理解出来ていることが前提になることは明らかです。
つまり、(2)の説明にある「7」、「1」、「6」は、いずれも実は「70」、「10」、「60」なのだ、ということが自明のこととして理解できている生徒だけが、この説明に納得し、計算式中のこの書き込みの意味を理解し、この計算法を運用できるわけです。
この点を理解していないジュンが、先生に指名されて貧乏揺すりをしながらべそをかいていたのはきわめて当然のことと言わなければなりません。
私との学習が終わったジュンが、上の「学校方式」にマイナーチェンジを加えて、「ジュン方式」を編み出しました。 これがその「ジュン方式」です。
学校では「6」と添え書きする、「10 を貸した後の十位の数」のところを、ジュンは「60」と添え書きしています。
これは、私が指示したのではなくジュンが自分で (おそらく無意識に) やっていたことです。
私はこれを見て、ジュンがくり下がりを理解したことを確かめました。
あとは、これが「身につく」ようにするために練習あるのみです。 毎日計算ドリルをやってもらわなくてはなりません。
学校から宿題がない日は父親自作のドリルで。 ということで、適当に数を組み合わせて、ドリル問題を現在鋭意作成中です。
小学校の算数では、生徒がつまずく石が3つあるのだそうですね。
(1) くり下がり引き算
(2) 割合(百分率、歩合)の計算
(3) 分数の四則演算
だそうです。
この(1)で、定式通りに見事につまずいてくれたジュン。
(2)、(3)でも、また定式通りにつまずいてくれることでしょうから、そのときには今日のように一緒に勉強したいと思います。
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震災その後6 子供たちに津波の痕を見せに行く
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-05-30
TITULO: Observación del area destruido por el desastre Tsunami, llevando los niños ---- El area costal de la ciudad de Sendai. 今月初め、連休で仙台に行った目的の一番は、父の家の片付けと、また父に孫たちを会わせて喜んでもらうことでした。 ですが、今回は幸い、少し日程に余裕を持って仙台にいられたので、その間の半日を使い、子供たちに「被災地」を見せることにしました。 本当は無事だった親戚たちに会うために陸前高田に行き、その折に子供たちに津波の様子を見てもらうという風にしたかったのですが、連休中あちらは相当混雑したらしいので断念し、今回は仙台市沿岸部の津波被災地に行くことにしました。 そしてその様子を子供に見せるだけでなく、私自身も見ておこうと思いました。En el area del desastre por Tsunami. El area costal de Sendai. 父の家は仙台でも少し内陸の方なので、津波の被害はまったくありませんでした。 そこから沿岸部に向かって車を走らせ、仙台の市街地を東の方角に通り抜けます。 そしてそれから10分もしないうちに、車の車窓には思わず絶句するしかないような光景が突然広がりだしました。Se dejaron muchos carros en el arrozar, con los restos de casas destruidas y árboles abatidos. この日は雨模様だったのですが、適当なところで車を止めて、この地域を少し歩いてみました。 やはり、実際に間近で見る津波の爪痕は、本当に心臓が飛び出しそうになるような恐ろしさと、迫力をもって迫ってきました。 まるでおもちゃのように無造作に散らばる数々の自動車。 始めからなかったかのように押しつぶされた家々。En un area del desastre por Tsunami. Las casas eran destruidas completamente y los carros se abandonaban por aca y ahi, como los juguetes. この近辺でよく目についたのが流木でした。 それも相当な大木ばかりです。 ちょっと見えにくいですが、写真の..
雑感、コラム
くまおとーさん
2011-05-30T16:43:16+09:00
今月初め、連休で仙台に行った目的の一番は、父の家の片付けと、また父に孫たちを会わせて喜んでもらうことでした。
ですが、今回は幸い、少し日程に余裕を持って仙台にいられたので、その間の半日を使い、子供たちに「被災地」を見せることにしました。 本当は無事だった親戚たちに会うために陸前高田に行き、その折に子供たちに津波の様子を見てもらうという風にしたかったのですが、連休中あちらは相当混雑したらしいので断念し、今回は仙台市沿岸部の津波被災地に行くことにしました。 そしてその様子を子供に見せるだけでなく、私自身も見ておこうと思いました。
En el area del desastre por Tsunami. El area costal de Sendai.
父の家は仙台でも少し内陸の方なので、津波の被害はまったくありませんでした。 そこから沿岸部に向かって車を走らせ、仙台の市街地を東の方角に通り抜けます。 そしてそれから10分もしないうちに、車の車窓には思わず絶句するしかないような光景が突然広がりだしました。
Se dejaron muchos carros en el arrozar, con los restos de casas destruidas y árboles abatidos.
この日は雨模様だったのですが、適当なところで車を止めて、この地域を少し歩いてみました。
やはり、実際に間近で見る津波の爪痕は、本当に心臓が飛び出しそうになるような恐ろしさと、迫力をもって迫ってきました。
まるでおもちゃのように無造作に散らばる数々の自動車。 始めからなかったかのように押しつぶされた家々。
En un area del desastre por Tsunami. Las casas eran destruidas completamente y los carros se abandonaban por aca y ahi, como los juguetes.
この近辺でよく目についたのが流木でした。 それも相当な大木ばかりです。
ちょっと見えにくいですが、写真のずっと遠景の方に松林がごく小さく写っています。 この松なんかは、おそらくあの場所からここまで流されてきたのでしょう。 すさまじい光景でした。
Un tronco de pino abatido, probablemente se llevó de la costa, que se ven muy lejos en la foto ambiguamente.
「津波の痕を見ておこう」なんて言っても、まったく実感がわかず (と言うか、何のことか分からず)、ここまでいつものようにギャーギャー騒いでいた子供たち。
でもこの光景はさすがに、こんな子供たちをすら、思わず口をつぐませ、呆然とさせてしまうに足る、あまりにも凄惨かつ恐怖に満ちたものでした。
Los niños miran la escena del desastre, perdiendo las palabras.
もし何もなければ、この頃にはすでに田植えが始まり、青々とした田園風景が広がり始めていたはずの場所。同じ子供が走るでも、こんな光景の中を走るようなことを誰が想像したことか、と考えると・・・ 絶句するしかありませんでした。
Normalmente, en este tiempo, la plantación de arroz ya debería empezar. Pero este año, no hay ninguna cosa en la tierra, y se ven solamente los restos del desastre.
その後仙台空港に移動しました。
空港のターミナルビルはいまだに閉鎖されたままです。 仮囲いの隙間から中をのぞくと、建物の中は一面の泥で、さすがにこれでは再開できないのも、むべなるかなです。
実際にはこの日にはすでに一部の航空路の運行が再開しており、ターミナルはかろうじて片付けたほんの一角を使っていました。
なお、写真ではわかりにくいのですが、津波の水位を示す泥の線が、柱にくっきりと残っていました。
El aeropuerto de Sendai, cerca del area dibujado arriba. El edificio estaba cerrado todavía, ocupado por el barro.
仙台空港は海の近くなので、そこから車でちょっと移動すると仙台湾沿いの海岸に着きます。
--- そして、このあたりの様子が、今回の帰省で、私の心に最も印象深く残ったものになりました。
海岸に到着直前の、車内からの光景。
Escena del barrio cerca de la playa.
つい先頃まで、ビーチサイドの素敵な家だったはずの場所。
Esta casa totalmente destruida debería ser un lugar divertido antes del terrémoto.
昨年の夏までは、海水浴客が行き来していた(小学校の時、私も訪れた)に違いない、砂浜に至る堤防。
El muro de la playa, que pasaban muchos visitadores para llegar a la playa, hasta el verano pasado.
そして、地震から約3週間を経た後、今では残酷なほどに静かに、青く、美しく広がる海と砂浜。
La playa y el mar estaban demasiado tranquilos, azules y lindos, despues de tres semanas del terrémoto.
仙台湾の広い砂浜にほど近い、穏やかなビーチサイド。 そこに、おそらくはそのような場所にあこがれて建てられた家々。
何もなければ、ただただ美しく、青い海と砂浜。
これらは、あの日のあの時間までは、確かにここに存在していたはずのものでした。
誰も予測しなかった激しい大地の揺れと、千年に一度の大波が、突然ここに押し寄せるまでは・・・
・・・ 私は海に行くのは大好きですが、今年からは、海水浴に子供を連れて行く度に、この日にこの場所で見た光景が、残酷な印象とともにずっとよみがえり続けるであろうと思います。 ・・・
最後にこの地の堤防の様子。
写真で一番手前の左半分に写っている大きなコンクリートの塊は、向こうに見えている堤防の礎石が打ち砕かれてここまで流されてきたものです。 津波の破壊力の大きさに、ただ驚くばかりです。 ちなみに、これよりももっと大きなコンクリート塊が、もっと遠くまで流されているところもありました。
Encontré un bloque grande, una parte del muro, que se ha destruido por Tsunami y se llevó unos dies metros. Me sorpresaba la fuerza de Tsunami de esta ocasión.
津波の痕は、ニュースで見るよりも遙かにすさまじい、文字通り想像を絶するものでした。
子供たちにどれほどの印象が残ったかは分かりません。 まだ理解できないかも知れません。 でも、この日の写真は大事にとって置いて、いずれまた子供たちに見せながら、この日私が抱いた印象について話をしてみようかと思っています。
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震災その後5 仙台の家と周辺の様子
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-05-09
仙台の家はひどい散らかり様であると父から聞いていたので、いろいろ手伝うつもりで行ったのですが、さすがに散らかったままでは日常もままならなかったらしく、生活空間の部分だけは自分で片付けてあったので、子供たちもそのまま食事したり寝たり、と普通に生活できました。 父はもう80歳を超えているのですが、こういうことに関しては我々以上の手際よさで、まあこう言っては何ですが本当に助かります。 とは言っても、仙台の家はもう築40年以上の古い家なので、地震の爪あとは至る所に見られました。 結構ひどかったのが風呂場。 このほかのタイルにも結構ヒビが入ったり、また父の話では地震直後は欠けたタイルが床に散らばっている状態だったとのことでした。 風呂に入るだけなら問題ありませんが、こういう傷は夏になるとカビの温床になって不衛生になるので、手入れが大変そうです。 あと、風呂場の窓が開きません。 家が歪んでしまったようです。 この点については骨組みも含めて早めに点検しないと、余震でどうなるか心配です。 壁の漆喰は至る所でこんな感じでした。 外壁には、目立たないもののあちこちにひび割れが。 右に立てかけてある網戸は、もとの窓枠が風呂場同様に歪んではまらなくなってしまったので、しょうがなく外しておいてあるものです。 こんな感じで、まあ日常生活に差し支えないとは言っても、古い家であるし、今後の余震などに多くの不安を残す状態でした。 実は、この家は昭和53年の宮城県沖地震(震度6)でも一度揺さぶられているので、それを考えると尚更です。 その後、家の周りを少し歩いてみました。 上にも書いた昭和53年の地震の際には、市内のあちこちでブロック塀が倒壊し、その下敷きになる(死亡された方も多い)という事故が大変多く発生して問題になりました。 その後対策は取られたと聞いていますが、我が家の近くでもこんな光景が何カ所か見られました。 この家は、ブロック塀が倒壊してしまった後を仮囲いにしてあります。 また別のところ。 一見それほどでもないようですが、もし地震の時この塀の近くにいたら、相当な大けがに至る可能性もあります。 そう考えると恐ろしくなります。 この家は、私が子どもの頃は電器屋さんだったところですが、外壁のモルタルがみんなはがれ落ちてしまっていました。 そのせいかどうかは分かりませんが、引っ越しの作業をしていました。 あと目立ったのが屋根の損傷。 私の家は..
日常
くまおとーさん
2011-05-09T11:55:03+09:00
父はもう80歳を超えているのですが、こういうことに関しては我々以上の手際よさで、まあこう言っては何ですが本当に助かります。
とは言っても、仙台の家はもう築40年以上の古い家なので、地震の爪あとは至る所に見られました。
結構ひどかったのが風呂場。
このほかのタイルにも結構ヒビが入ったり、また父の話では地震直後は欠けたタイルが床に散らばっている状態だったとのことでした。 風呂に入るだけなら問題ありませんが、こういう傷は夏になるとカビの温床になって不衛生になるので、手入れが大変そうです。
あと、風呂場の窓が開きません。 家が歪んでしまったようです。 この点については骨組みも含めて早めに点検しないと、余震でどうなるか心配です。
壁の漆喰は至る所でこんな感じでした。
外壁には、目立たないもののあちこちにひび割れが。
右に立てかけてある網戸は、もとの窓枠が風呂場同様に歪んではまらなくなってしまったので、しょうがなく外しておいてあるものです。
こんな感じで、まあ日常生活に差し支えないとは言っても、古い家であるし、今後の余震などに多くの不安を残す状態でした。 実は、この家は昭和53年の宮城県沖地震(震度6)でも一度揺さぶられているので、それを考えると尚更です。
その後、家の周りを少し歩いてみました。
上にも書いた昭和53年の地震の際には、市内のあちこちでブロック塀が倒壊し、その下敷きになる(死亡された方も多い)という事故が大変多く発生して問題になりました。 その後対策は取られたと聞いていますが、我が家の近くでもこんな光景が何カ所か見られました。
この家は、ブロック塀が倒壊してしまった後を仮囲いにしてあります。
また別のところ。 一見それほどでもないようですが、もし地震の時この塀の近くにいたら、相当な大けがに至る可能性もあります。 そう考えると恐ろしくなります。
この家は、私が子どもの頃は電器屋さんだったところですが、外壁のモルタルがみんなはがれ落ちてしまっていました。 そのせいかどうかは分かりませんが、引っ越しの作業をしていました。
あと目立ったのが屋根の損傷。 私の家はトタン葺きなので大丈夫でしたが、瓦屋根の家はほとんどが、程度の差はあれこのような損傷を被っていたようです。
これと同様の光景は、前日に高速道路を走っていたとき、茨城県内くらいからすでにあちこちで見られていました。
地震と関係ありませんが、歩いていたら、私が小さいときに住んでいた家が、まだ現役で残っているのを見て感激してしまいました!
あとあちらの方では、NHKが被災者のために、生活に必要ないろいろな情報をテレビで流しています。
時間を決めてこういう感じで放送するときもありますが ↓
通常の番組を流しているときも、画面の外枠には24時間ずーっとこういう感じで情報が流され続けています。 ↓
ここらへんの緊迫感というか、被災地の実感みたいなのは、やはり東京あたりとは違うと思いました。
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震災その後4 連休中は仙台へ
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-05-07
この連休中は、子供たちを仙台の父親の家に連れて行きました。 震災の後、心配ではあるものの交通機関の問題などもあり一度も行っていませんでした。 ようやく鉄道や道路も復旧の兆しを見せ、また先日書いたようにガスや水道も使えるようになったということだったので、子供たちをみんな連れて行ってくることにしました。 4月30日に出発し、5月2日は学校・幼稚園に欠席届を出して、4日の午後に帰途に着くというスケジュールでしたので、まるまる中3日滞在できました。 新幹線はすでに全線復旧していますが、荷物がちょっと多くなったのと、またうちの子供たちはとにかく公共の場で騒ぐ、暴れるをやめられない人たちなので、クルマで行きました。 東北自動車道はかなりの渋滞だったので、まず常磐自動車道を通って いわき まで、そこから磐越道で郡山に抜け、あとは東北自動車道で仙台まで、というルートで行きましたら、ほとんど渋滞につかまらずに済みました。 結局、早朝に横浜の家を出て、父の家に到着したのは午後2時前。 途中数回の休憩をしたことを考えれば、まずまず順調な旅でした。 上記のルートでちょっと気になるのは常磐自動車道のいわき付近でしょうか。 北上するにつれ、「いわき以北は通行止」の表示が目立ち始めます。 現今の情勢が情勢だけに、やや不気味に感じられました。 ただ、道路は(当然でしょうが)それなりの交通量もあり、通過してみた印象では特に何か緊迫したようなものは感じられませんでした。 磐越道の途中に、「阿武隈高原」という名前のサービスエリアがあります。 ちょうどその辺で昼時になったので、食事がてら子供たちを降ろして大休止としました。(ちなみに写っているクルマは私のではありません) 売店の窓に貼ってある 「たちあがれ福島」 のスローガンが、何か痛々しく感じられたのはおそらく私だけではないと思います。 SAはその名のとおり高原にあるせいか、天気の良い日中にもかかわらずひんやりとしており、桜が満開でした。 今年2度目の桜を鑑賞しました。 桜のほかの花もこんな感じで、私から見ると季節が1ヶ月くらい逆戻りした感じです。 SA内にはちょっとした遊び場もあり、子供たちは窮屈な車内から開放されて、飛び回って遊んでいました。 他の子供たちにもこのスポットは人気で、ちょっとした混雑となっていました。 高速道路には、さすがにあまり大げさな震災の傷跡はありませんでしたが、あちこち..
日常
くまおとーさん
2011-05-07T15:15:03+09:00
震災の後、心配ではあるものの交通機関の問題などもあり一度も行っていませんでした。 ようやく鉄道や道路も復旧の兆しを見せ、また先日書いたようにガスや水道も使えるようになったということだったので、子供たちをみんな連れて行ってくることにしました。
4月30日に出発し、5月2日は学校・幼稚園に欠席届を出して、4日の午後に帰途に着くというスケジュールでしたので、まるまる中3日滞在できました。
新幹線はすでに全線復旧していますが、荷物がちょっと多くなったのと、またうちの子供たちはとにかく公共の場で騒ぐ、暴れるをやめられない人たちなので、クルマで行きました。
東北自動車道はかなりの渋滞だったので、まず常磐自動車道を通って いわき まで、そこから磐越道で郡山に抜け、あとは東北自動車道で仙台まで、というルートで行きましたら、ほとんど渋滞につかまらずに済みました。 結局、早朝に横浜の家を出て、父の家に到着したのは午後2時前。 途中数回の休憩をしたことを考えれば、まずまず順調な旅でした。
上記のルートでちょっと気になるのは常磐自動車道のいわき付近でしょうか。 北上するにつれ、「いわき以北は通行止」の表示が目立ち始めます。 現今の情勢が情勢だけに、やや不気味に感じられました。 ただ、道路は(当然でしょうが)それなりの交通量もあり、通過してみた印象では特に何か緊迫したようなものは感じられませんでした。
磐越道の途中に、「阿武隈高原」という名前のサービスエリアがあります。 ちょうどその辺で昼時になったので、食事がてら子供たちを降ろして大休止としました。
(ちなみに写っているクルマは私のではありません)
売店の窓に貼ってある 「たちあがれ福島」 のスローガンが、何か痛々しく感じられたのはおそらく私だけではないと思います。
SAはその名のとおり高原にあるせいか、天気の良い日中にもかかわらずひんやりとしており、桜が満開でした。 今年2度目の桜を鑑賞しました。
桜のほかの花もこんな感じで、私から見ると季節が1ヶ月くらい逆戻りした感じです。
SA内にはちょっとした遊び場もあり、子供たちは窮屈な車内から開放されて、飛び回って遊んでいました。 他の子供たちにもこのスポットは人気で、ちょっとした混雑となっていました。
高速道路には、さすがにあまり大げさな震災の傷跡はありませんでしたが、あちこちで道路がうねっているので、うっかりしているとクルマがぴょんぴょん跳ねてしまいます。 また、いたるところにこんな修復の様子が見られました。
あと、こんな車両がひっきりなしに走っていました。
午後2時前、無事到着。
父は久々に会う孫たちの到着に大変喜んでいました。
また稿を改めてあちらでの様子を書きたいと思います。
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震災その後3 仙台でガス復旧
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-04-16
今朝、仙台の父から電話があり、昨日ついに父の家でもガスが復旧したとのことでした。 同時に、仙台市内全域でのガス完全復旧が宣言され、いろいろあった私の周辺でも久々に明るいニュースになりました。 父の話では、父の家の作業に携わったのは札幌市ガス局の方だったと。またお隣の家では大阪市ガス局の方だったそうで、こんな風に全国からの救援により、地震から1ヶ月程度で復旧できたのだという事実に本当にありがたく思いました。 父は、作業に来ていたその札幌の人に声をかけて話を聞いたところ、彼らは地震直後に仙台入りし、その後1ヶ月ずっと仙台で作業しっぱなしで家に帰っていないそうです。 その後昼食時、作業用の軽トラックの中でその方々がカップラーメンを取り出すのを見て、父はさすがにいたたまれなくなり、昼食代を渡して、どこかで食べてきて下さいと言ったそうです。 そうなると彼らの泊まり先も心配になりますが、それはさすがに鳴子の温泉宿をあてがわれて、毎日そこから仙台市内に来ているということで、せめてそれくらいのことはされているのだと私も少し安心しました。 ガスが復旧すると温かいものもコンスタントに口にできるようになると思うので、父もいくらか楽になるのではないでしょうか。 ピナはその後、おじいちゃんを励ますものをもう一つ作って送りました。 宅配便用のボール紙封筒の裏に書いたもの。 相変わらず判読困難ではありますが、「みんなだいすきだよ」 の文字が見えます。 中央のハートの中にいる4人のうち、一番上の帽子をかぶっているのがおじいちゃんです。 あとは家族の顔をひとりひとり。 ピナの意図としては、「みんな、おじいちゃんと一緒にいて応援しているよ」 というメッセージを込めたようです。 ちなみに私は、ピナがこれを書いた当日、無精ヒゲをのばしっ放しにしていたので、絵の一番右下にこんな顔を描かれてしまいました (>o<)
日常
くまおとーさん
2011-04-16T10:42:41+09:00
同時に、仙台市内全域でのガス完全復旧が宣言され、いろいろあった私の周辺でも久々に明るいニュースになりました。
父の話では、父の家の作業に携わったのは札幌市ガス局の方だったと。またお隣の家では大阪市ガス局の方だったそうで、こんな風に全国からの救援により、地震から1ヶ月程度で復旧できたのだという事実に本当にありがたく思いました。
父は、作業に来ていたその札幌の人に声をかけて話を聞いたところ、彼らは地震直後に仙台入りし、その後1ヶ月ずっと仙台で作業しっぱなしで家に帰っていないそうです。
その後昼食時、作業用の軽トラックの中でその方々がカップラーメンを取り出すのを見て、父はさすがにいたたまれなくなり、昼食代を渡して、どこかで食べてきて下さいと言ったそうです。 そうなると彼らの泊まり先も心配になりますが、それはさすがに鳴子の温泉宿をあてがわれて、毎日そこから仙台市内に来ているということで、せめてそれくらいのことはされているのだと私も少し安心しました。
ガスが復旧すると温かいものもコンスタントに口にできるようになると思うので、父もいくらか楽になるのではないでしょうか。
ピナはその後、おじいちゃんを励ますものをもう一つ作って送りました。
宅配便用のボール紙封筒の裏に書いたもの。
相変わらず判読困難ではありますが、「みんなだいすきだよ」 の文字が見えます。
中央のハートの中にいる4人のうち、一番上の帽子をかぶっているのがおじいちゃんです。 あとは家族の顔をひとりひとり。 ピナの意図としては、「みんな、おじいちゃんと一緒にいて応援しているよ」 というメッセージを込めたようです。
ちなみに私は、ピナがこれを書いた当日、無精ヒゲをのばしっ放しにしていたので、絵の一番右下にこんな顔を描かれてしまいました (>o<)
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子供たちの震災支援
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-04-12
今度の震災で、仙台に住む私の父は、広い意味での被災者としていろいろ不自由な生活を現在なお強いられています。 家の中はもう足の踏み場もないそうで、特に母が生前使っていた姿見が倒れ、広範囲に細かいガラス片がまき散らされている状態はもうどうにもならないとのことでした。 父も高齢ですし、一人で片付けるのには限界があり、やっと作った布団一枚分のスペースで現在寝起きしているとのこと。 ガスが復旧しないのでロクな調理もできず(父は結構料理が得意)、かなり状態は悪いようです。 ここで駆けつけることがままならないのが、現在の私の悔しいところです。 こんなことを子供たちに話しておりましたら、ジュンがまず率先して、「じゃあ、おじいちゃんにお手紙書く」 と。 クリスマスに家内の両親からもらったお手紙セットを早速取り出し、何かしばらくごそごそとやっていました。それをそのセットの封筒に入れ、「これ、おじいちゃんに出すよ。どうすればいいの?」とのことでしたので、そのセットの封筒ごと定形の封筒に入れ直し(セットのは小さすぎてそのままでは送れない)、表書きと切手を貼るところまでやって見せて、ポストへの投函は本人にやらせました。 実は、「中を見ちゃダメだよ」 ということだったのですが、本人には内緒で、ジュンが寝た後に撮った写真がこれです。 「せんだいのおじいちゃんへ じしんがなん日もつづい(て)こ わかったよ。 おうちはぐらゆれ るしものもおちるからたいへん だったよ。 おじいちゃんのおうち はものがおちなかったかしんぱ いだよ。 ぼくはがんばる からおじいちゃんもがんばっ てね。」 「見ちゃダメ」と言っていましたが、一年生にしてはまあまあよく書けているのではないかと思いました。 ピナは「おじいちゃんは柿が好きだから、柿を送ってあげる」と。 ちなみに柿が好きというのは事実です。 「今、柿なんかないよ」 という私の野暮な指摘などには耳もくれず、出来上がったのがこれです。 判読困難ですが、上の二つの「柿」には、その二つにまたがって 「せんだいのおぢいちゃん」と、タテ書きで書いてあります。 「おじいちゃん」ではなく「おぢいちゃん」なのが時代がかっていてご愛嬌。 現在の状況なので、あちらに着くまで3日かかりましたが、着いたその日に、「おじいちゃん」から電話があったことは言うまでもありません。
子どもたち
くまおとーさん
2011-04-12T23:22:59+09:00
ここで駆けつけることがままならないのが、現在の私の悔しいところです。
こんなことを子供たちに話しておりましたら、ジュンがまず率先して、「じゃあ、おじいちゃんにお手紙書く」 と。
クリスマスに家内の両親からもらったお手紙セットを早速取り出し、何かしばらくごそごそとやっていました。それをそのセットの封筒に入れ、
「これ、おじいちゃんに出すよ。どうすればいいの?」
とのことでしたので、そのセットの封筒ごと定形の封筒に入れ直し(セットのは小さすぎてそのままでは送れない)、表書きと切手を貼るところまでやって見せて、ポストへの投函は本人にやらせました。
実は、「中を見ちゃダメだよ」 ということだったのですが、本人には内緒で、ジュンが寝た後に撮った写真がこれです。
「せんだいのおじいちゃんへ
じしんがなん日もつづい(て)こ
わかったよ。 おうちはぐらゆれ
るしものもおちるからたいへん
だったよ。 おじいちゃんのおうち
はものがおちなかったかしんぱ
いだよ。 ぼくはがんばる
からおじいちゃんもがんばっ
てね。」
「見ちゃダメ」と言っていましたが、一年生にしてはまあまあよく書けているのではないかと思いました。
ピナは「おじいちゃんは柿が好きだから、柿を送ってあげる」と。 ちなみに柿が好きというのは事実です。
「今、柿なんかないよ」 という私の野暮な指摘などには耳もくれず、出来上がったのがこれです。
判読困難ですが、上の二つの「柿」には、その二つにまたがって 「せんだいのおぢいちゃん」と、タテ書きで書いてあります。 「おじいちゃん」ではなく「おぢいちゃん」なのが時代がかっていてご愛嬌。
現在の状況なので、あちらに着くまで3日かかりましたが、着いたその日に、「おじいちゃん」から電話があったことは言うまでもありません。
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ソワ、入院す
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-04-03
先週、ソワが入院するという騒ぎがありました。 去る3月26日土曜日の朝、ソワは起きてくるなり少し吐きました。 小さい子はたまにこういうこともあるし、またその後は朝食をちゃんと食べたので、大したことなかったか、と思っていたら、しばらくして食べたものを全部吐きました。 これでさすがにただ事ではないと思い、たまたまこの日に土曜診療をやっていたかかりつけの小児科に連れて行きました。 先生曰く、「ウイルス性の胃腸炎ですね。まだ流行っていますから。 少しづつ水分をあげて下さい。 月曜日にまた様子を見せに来て下さい」 とのこと。 「無理に飲ませるほどではない」という整腸剤だけ出されて帰ってきました。 この時点では、ソワはまだ活気もあり、こちらもあちらもそれほどの切迫感はありませんでした。 状況が緊迫したのは翌日曜日。 とにかく吐く、下痢する。 胃に負担をかけないようにと、スプーンで少しずつあげる水やお茶も、口にする片っ端から全部吐く。 そして大して水分が取れてないのに、ほとんど水がそのまま出てきたような、まるでおしっこのような下痢を大量にする。 これが一日中です。 脱水症状にならない方が不思議です。 夕方には、体中の水分が搾り取られて、いつも丸顔のソワが、まるで骸骨のような顔貌になってしまいました。 本人は最初は泣いていたのですが、夜には泣く元気すらなくなってきてしまいました。 こうなると緊急事態です。 翌28日月曜日、朝一番で病院へ。 「来週もう一度見せに来て下さい」どころの騒ぎではありません。 さすがに先生も一目見るなり、「点滴します」。 左手の甲に点滴の針を刺されました。 ソワは、これをされてももう泣き声を上げられないほどになっていました。 そして処置室に移され、こんな姿に。 そして、必要な点滴の量と、それにかかる時間から計算して、入院することになってしまいました。 私が夕方、仕事から病院に回ったときにはこんな様子。 ソワはまだ意識がモーローとしています。 そばで見守っているのはジュンです。 このままひたすら点滴を続け、そしてその日の深夜・・・やっとソワが目を開けて、なんと・・・「おとーさん、ハンバーガー、 たべたい」・・・ とつぶやいたこの瞬間には、本当に涙が出そうになりました。 これ以降は順調に恢復し、翌29日の早朝に見舞ったときには、「おとーさん、 おにぎり、たべたい」とのことでしたので、早速ご所望のものを届け..
子どもたち
くまおとーさん
2011-04-04T00:24:42+09:00
去る3月26日土曜日の朝、ソワは起きてくるなり少し吐きました。
小さい子はたまにこういうこともあるし、またその後は朝食をちゃんと食べたので、大したことなかったか、と思っていたら、しばらくして食べたものを全部吐きました。
これでさすがにただ事ではないと思い、たまたまこの日に土曜診療をやっていたかかりつけの小児科に連れて行きました。 先生曰く、「ウイルス性の胃腸炎ですね。まだ流行っていますから。 少しづつ水分をあげて下さい。 月曜日にまた様子を見せに来て下さい」 とのこと。 「無理に飲ませるほどではない」という整腸剤だけ出されて帰ってきました。 この時点では、ソワはまだ活気もあり、こちらもあちらもそれほどの切迫感はありませんでした。
状況が緊迫したのは翌日曜日。
とにかく吐く、下痢する。 胃に負担をかけないようにと、スプーンで少しずつあげる水やお茶も、口にする片っ端から全部吐く。 そして大して水分が取れてないのに、ほとんど水がそのまま出てきたような、まるでおしっこのような下痢を大量にする。 これが一日中です。 脱水症状にならない方が不思議です。
夕方には、体中の水分が搾り取られて、いつも丸顔のソワが、まるで骸骨のような顔貌になってしまいました。 本人は最初は泣いていたのですが、夜には泣く元気すらなくなってきてしまいました。 こうなると緊急事態です。
翌28日月曜日、朝一番で病院へ。 「来週もう一度見せに来て下さい」どころの騒ぎではありません。 さすがに先生も一目見るなり、「点滴します」。
左手の甲に点滴の針を刺されました。 ソワは、これをされてももう泣き声を上げられないほどになっていました。 そして処置室に移され、こんな姿に。
そして、必要な点滴の量と、それにかかる時間から計算して、入院することになってしまいました。
私が夕方、仕事から病院に回ったときにはこんな様子。 ソワはまだ意識がモーローとしています。
そばで見守っているのはジュンです。
このままひたすら点滴を続け、そしてその日の深夜・・・
やっとソワが目を開けて、なんと・・・
「おとーさん、ハンバーガー、 たべたい」
・・・ とつぶやいたこの瞬間には、本当に涙が出そうになりました。
これ以降は順調に恢復し、翌29日の早朝に見舞ったときには、
「おとーさん、 おにぎり、たべたい」
とのことでしたので、早速ご所望のものを届け、回復後の最初の食事風景を見届けました。
同日の昼は病院の給食。
こちらもこのとおりの食べっぷりで、しかもその後も吐くこともなく、この日の午後に無事退院となりました。
退院後も、下痢がしばらく残ってしまい保育園もお休みしておりましたが、それも今日(4月3日)にはほぼなくなり、明日から保育園に復帰できそうです。
ちなみにソワが入院した病室はきれいだったし、窓からの眺めもこんなでした。
写っている木の枝は桜です。 花の盛りの頃に入院した人は当たり、なんていう不謹慎な感想を抱いてしまうほど、目の前に桜がたくさん立ち並んでいました。
ソワが入院当日はまだこんな感じでした。
でもおかげさまで、退院後は食欲も戻り、晩にはご飯をおかわりした上、「快気祝い」のケーキまで平らげました。 兄弟そろってアニメを見られることは、本当に幸せなことだと、今度の一件を通じて改めて感じました。
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地震その後 子供たち
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-03-20
地震の後、子供たちにもいろんな行事がありました。 子供たちも地震のことはいろいろと耳にしているようなのですが、東京に暮らす私としては、子供たちが前から楽しみにしていた行事くらいはできるだけ実現してほしいと思いました。 いくつか中止になったものもありましたが、ピナの幼稚園の卒園式、ソワの保育園の卒園および成長を祝う会は執り行われました。 あと、この期間中にピナは5歳の誕生日を迎えました。 まず17日は、ピナの幼稚園の卒園式でした。 ピナは今年は送る側です。 卒園する年長組に仲の良い子がいたピナは、その子が目の前を通り過ぎていったとき、こんな顔になってしまいました・・・ 私は式には出席していなかったのですが、他の子のお母さんから聞いた話では、式ではピナは結構大変だったようです。 その話によると、 年長組がお別れの歌を歌い出したとき、その中の何人かが泣き出した ↓ ピナがもらい泣き開始 ↓ その声がクレッシェンド ↓ その泣き声はますます大きくなり、ついに司会の教頭先生のマイクの声が通らないまでに ↓ やむを得ず式を中断し、担任の先生がピナをなだめにかかる ↓ 数分後、ようやく静まり、式再開ということだったそうです。 一部のお母さんからは、「ピナちゃんは感情が豊かな子ね」 といわれましたが、普段からピナの行状を目にしている私としては、単に興奮しやすく、激情派なだけだと分かっているので、ああまたやってしまったか、という感じでした。 翌18日はピナの5歳の誕生日。 この地震の余波で、いろんなことが自粛ムード、またスーパーに行ってもあまり食材がないような中での誕生日となりました。 うちでも、親戚の何人かがすでに絶望的、などの未確認情報が流れています。 私も、ピナから誕生日プレゼントの具体的なリクエストを聞いていたにもかかわらず、それを調達する暇も余裕もありませんでした。 でも、一生に一度しかない5歳の誕生日。 せめてできるだけのことをしてあげたいと思い、午後を休みにしてピナ、妻と一緒にケーキを作りました。 本当ならもらえるは..
子どもたち
くまおとーさん
2011-03-21T00:23:05+09:00
子供たちも地震のことはいろいろと耳にしているようなのですが、東京に暮らす私としては、子供たちが前から楽しみにしていた行事くらいはできるだけ実現してほしいと思いました。
いくつか中止になったものもありましたが、ピナの幼稚園の卒園式、ソワの保育園の卒園および成長を祝う会は執り行われました。
あと、この期間中にピナは5歳の誕生日を迎えました。
まず17日は、ピナの幼稚園の卒園式でした。 ピナは今年は送る側です。
卒園する年長組に仲の良い子がいたピナは、その子が目の前を通り過ぎていったとき、こんな顔になってしまいました・・・
私は式には出席していなかったのですが、他の子のお母さんから聞いた話では、式ではピナは結構大変だったようです。
その話によると、
年長組がお別れの歌を歌い出したとき、その中の何人かが泣き出した
↓
ピナがもらい泣き開始
↓
その声がクレッシェンド
↓
その泣き声はますます大きくなり、ついに司会の教頭先生のマイクの声が通らないまでに
↓
やむを得ず式を中断し、担任の先生がピナをなだめにかかる
↓
数分後、ようやく静まり、式再開
ということだったそうです。
一部のお母さんからは、「ピナちゃんは感情が豊かな子ね」 といわれましたが、普段からピナの行状を目にしている私としては、単に興奮しやすく、激情派なだけだと分かっているので、ああまたやってしまったか、という感じでした。
翌18日はピナの5歳の誕生日。
この地震の余波で、いろんなことが自粛ムード、またスーパーに行ってもあまり食材がないような中での誕生日となりました。
うちでも、親戚の何人かがすでに絶望的、などの未確認情報が流れています。
私も、ピナから誕生日プレゼントの具体的なリクエストを聞いていたにもかかわらず、それを調達する暇も余裕もありませんでした。
でも、一生に一度しかない5歳の誕生日。 せめてできるだけのことをしてあげたいと思い、午後を休みにしてピナ、妻と一緒にケーキを作りました。
本当ならもらえるはずのプレゼントのない誕生日。
「地震だからしょうがないよ。 仙台のおじいちゃん、地震で怖いんだし」
という、ピナの気丈な言葉に、5歳になったことを実感しました。
明けて19日は、ソワの通う保育園での卒園式。 ソワはもちろん送る側です。
送る側の小さな子供たちも、「成長を祝う会」と題していろんな出し物をやりました。
ソワの所属する2歳児クラスは歌と踊り。
保護者たちが居並ぶ異様な雰囲気に、泣き出してしまってまったく演技にならない子が多かったのですが、ソワはこういう席では肝っ玉が座っているらしく、一人超然として演技らしいものをしていたのには、親ながら感心してしまいました。
踊りの様子、保育室の飾りなど、いろいろ面白かったのですが、どうしても他の子の顔が入ってしまうので、ここにはソワのポワーンとした様子しか載せられないのが残念です。
週末、しばらく空けてしまった横浜の家へ。
玄関前には、水仙が咲きそろっていました。 また、チューリップもしっかり芽を出していました。
今年の冬は寒い日が多かったので、チューリップの球根もしっかり寒さに晒されたと思います。きれいな花が咲くものと期待しています。
しばらく見ないうちに、クリスマスローズはすでに盛りを過ぎていました。
子供たちと公園に行きましたら、こちらには白木蓮が (木によりますが)。
いろいろと大変でもあり、ストレスの多かった1週間でしたが、それゆえにと言うべきでしょうか、子供たちは公園で元気いっぱいに遊びました。 私も久々にまるまる半日一緒に外で遊びました。
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こちら
(動画のアップがうまく行ってないかもしれません。 今後研究します)
地震の余波の写真をひとつだけ。
私の職場の近くに、小さなガソリンスタンドがあります。 普段はそれほど混んでいるのを見かけたことのないところなのですが、地震の後のガソリン逼迫騒ぎはこんな光景を現出させてしまいました。
一番左は給油待ちの車の列。 スタンドはどこにあるかというと、写真の一番右手奥、道路標識のあるところのちょっと先です。 何か背筋の寒くなるものを感じました。
昔、オイルショックのときにも、ここまでのことはなかったような気がしますが・・・
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地震その後 2
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-03-17
一昨日私の父が、三陸の実家のある町に車で乗り込み、状況を見てきました。 目的地は何度か報道されている陸前高田です。 うちの実家は、その町からさらに岬の方に入り込んだところにあります。 父によれば、途中の道路は一応通ってはいるものの交通規制が厳しく、父はその都度事情を話しながら通してもらったということです。 また昨日は、知人親類の安否を触れ回るために一時的に盛岡に移動した親戚から電話がありました。 父、親戚の話を聞くと、地元は一部では想像を絶する惨状であり、また幸いにも他の一部ではそれほどでもないところもあり、ということ(当たり前ですが)で、かなり詳細が分かりました。 親族は無事が分かった人が多く、あの地区では奇跡的なことだと思いました。 ですが、私が親同然にかわいがってもらった祖母方の叔母ユキとその家族は、絶望的とのことでした。 報道で流された町の状態を見て、この人たちについては覚悟していましたが。 でも私としては、どこに流されてしまったか分からない、というのが一番いやです。 不謹慎かも知れませんが、どんな見つかり方でもいいから見つかってほしいです。 ユキおばさんには、たとえどんな姿になっていてもいいからもう一度お目にかかってからお別れしたいです。 地元の消防や警察は全部海に流されてしまったので、全国各地から駆けつけた方々のお世話になっているようです。 うちの地元は、警察は京都府警、消防は大阪と九州の混成部隊とのことでした。 電話してきた私の親戚は、地元のがれきの山に沿って 「北九州市消防」 と大書されたレスキュー車が十数台も延々と並んでいるのを見て、「これで大丈夫だと思った」、と言っていました。 要するに、そんな遠くから救援に来ていただいたのを見て有り難く、また力づけられたと思ったということでしょう。 また彼は、「あんたの家のあたりは、大阪の 「きめん」 というところの消防車が来ていたぞ」 と。 私も大阪とか関西の地理には疎いので、へえ、そんな地名の町が大阪にあるのかと思いましたが、一応その 「きめん」 というのはどういう漢字を書くのかと聞きましたら、どうも 「箕面」 のことのようです。 これはたしか「みのお」と読むのですよね。 箕面の方には申し訳ないですが、東北の寒村にずっとこもって暮らしている人間にとって、関西地方というのはかくも遠いところなのだということでお許し下さい。 実は私も大同小異です。 でも..
雑感、コラム
くまおとーさん
2011-03-17T11:13:36+09:00
目的地は何度か報道されている陸前高田です。 うちの実家は、その町からさらに岬の方に入り込んだところにあります。 父によれば、途中の道路は一応通ってはいるものの交通規制が厳しく、父はその都度事情を話しながら通してもらったということです。
また昨日は、知人親類の安否を触れ回るために一時的に盛岡に移動した親戚から電話がありました。
父、親戚の話を聞くと、地元は一部では想像を絶する惨状であり、また幸いにも他の一部ではそれほどでもないところもあり、ということ(当たり前ですが)で、かなり詳細が分かりました。
親族は無事が分かった人が多く、あの地区では奇跡的なことだと思いました。
ですが、私が親同然にかわいがってもらった祖母方の叔母ユキとその家族は、絶望的とのことでした。 報道で流された町の状態を見て、この人たちについては覚悟していましたが。
でも私としては、どこに流されてしまったか分からない、というのが一番いやです。 不謹慎かも知れませんが、どんな見つかり方でもいいから見つかってほしいです。 ユキおばさんには、たとえどんな姿になっていてもいいからもう一度お目にかかってからお別れしたいです。
地元の消防や警察は全部海に流されてしまったので、全国各地から駆けつけた方々のお世話になっているようです。
うちの地元は、警察は京都府警、消防は大阪と九州の混成部隊とのことでした。 電話してきた私の親戚は、地元のがれきの山に沿って 「北九州市消防」 と大書されたレスキュー車が十数台も延々と並んでいるのを見て、「これで大丈夫だと思った」、と言っていました。 要するに、そんな遠くから救援に来ていただいたのを見て有り難く、また力づけられたと思ったということでしょう。
また彼は、「あんたの家のあたりは、大阪の 「きめん」 というところの消防車が来ていたぞ」 と。
私も大阪とか関西の地理には疎いので、へえ、そんな地名の町が大阪にあるのかと思いましたが、一応その 「きめん」 というのはどういう漢字を書くのかと聞きましたら、どうも 「箕面」 のことのようです。 これはたしか「みのお」と読むのですよね。 箕面の方には申し訳ないですが、東北の寒村にずっとこもって暮らしている人間にとって、関西地方というのはかくも遠いところなのだということでお許し下さい。 実は私も大同小異です。
でもとにかく、箕面、北九州、京都、「かくも遠いところ」から、本当に有り難く思います。 東京にいる私も勇気づけられます。
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地震その後
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-03-13
今回の地震の後、仙台市内にいた父親とは、実に今朝になって初めて電話がつながり、ようやく安心することができました。 ただ、暖房も食料もない状態で、その上こういうときに限って寒さが厳しいようで、状況はかなり厳しいようです。 幸いにして、父は秋田方面に身を寄せるところがあるので、今日中にもそちらに移動する予定とのこと。 そちらに到着すれば本当に安心です。 三陸の親戚とはまったく連絡が取れません。未確認情報では、その一部は行方不明者になってしまっているとのことで、この方面は最悪の状況もあり得るかも知れません。
日常
くまおとーさん
2011-03-13T21:01:54+09:00
幸いにして、父は秋田方面に身を寄せるところがあるので、今日中にもそちらに移動する予定とのこと。 そちらに到着すれば本当に安心です。
三陸の親戚とはまったく連絡が取れません。未確認情報では、その一部は行方不明者になってしまっているとのことで、この方面は最悪の状況もあり得るかも知れません。
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東北太平洋地震
https://kuma-padre.blog.ss-blog.jp/2011-03-11
今日の大地震、本当に驚きました。 幸いにして、私も家族も、職場も、それほどの大被害はなくすみました。 今日は職場の近くに帰るので、帰宅も私は問題ありません。 ただ、仙台市内に住んでいる父親と、午後9時半になってもまったく連絡が取れず、これだけが残された心配です。 東北地方沿岸の津波も恐ろしいことでした。 私はもともと三陸の出身なので、祖父から、昭和8年の三陸大地震津波、昭和35年のチリ地震津波の体験談を繰り返し聞いておりましたが、ついに私自身も(テレビでですが)実物をリアルタイムで見てしまいました。 うちの実家のあたりがどうなっているか、早く知りたいのですがまだどうしようもありません。
日常
くまおとーさん
2011-03-11T21:39:50+09:00
幸いにして、私も家族も、職場も、それほどの大被害はなくすみました。
今日は職場の近くに帰るので、帰宅も私は問題ありません。
ただ、仙台市内に住んでいる父親と、午後9時半になってもまったく連絡が取れず、これだけが残された心配です。
東北地方沿岸の津波も恐ろしいことでした。
私はもともと三陸の出身なので、祖父から、昭和8年の三陸大地震津波、昭和35年のチリ地震津波の体験談を繰り返し聞いておりましたが、ついに私自身も(テレビでですが)実物をリアルタイムで見てしまいました。
うちの実家のあたりがどうなっているか、早く知りたいのですがまだどうしようもありません。
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