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震災その後6 子供たちに津波の痕を見せに行く [雑感、コラム]

TITULO: Observación del area destruido por el desastre Tsunami, llevando los niños ---- El area costal de la ciudad de Sendai.

 今月初め、連休で仙台に行った目的の一番は、父の家の片付けと、また父に孫たちを会わせて喜んでもらうことでした。
 ですが、今回は幸い、少し日程に余裕を持って仙台にいられたので、その間の半日を使い、子供たちに「被災地」を見せることにしました。 本当は無事だった親戚たちに会うために陸前高田に行き、その折に子供たちに津波の様子を見てもらうという風にしたかったのですが、連休中あちらは相当混雑したらしいので断念し、今回は仙台市沿岸部の津波被災地に行くことにしました。 そしてその様子を子供に見せるだけでなく、私自身も見ておこうと思いました。
En el area del desastre por Tsunami. El area costal de Sendai.
仙台沿岸津波3.JPG


 父の家は仙台でも少し内陸の方なので、津波の被害はまったくありませんでした。 そこから沿岸部に向かって車を走らせ、仙台の市街地を東の方角に通り抜けます。 そしてそれから10分もしないうちに、車の車窓には思わず絶句するしかないような光景が突然広がりだしました。
Se dejaron muchos carros en el arrozar, con los restos de casas destruidas y árboles abatidos.
仙台沿岸津波1.JPG


 この日は雨模様だったのですが、適当なところで車を止めて、この地域を少し歩いてみました。
 やはり、実際に間近で見る津波の爪痕は、本当に心臓が飛び出しそうになるような恐ろしさと、迫力をもって迫ってきました。
 まるでおもちゃのように無造作に散らばる数々の自動車。 始めからなかったかのように押しつぶされた家々。
En un area del desastre por Tsunami. Las casas eran destruidas completamente y los carros se abandonaban por aca y ahi, como los juguetes.
仙台沿岸津波2.JPG


 この近辺でよく目についたのが流木でした。 それも相当な大木ばかりです。
 ちょっと見えにくいですが、写真のずっと遠景の方に松林がごく小さく写っています。 この松なんかは、おそらくあの場所からここまで流されてきたのでしょう。 すさまじい光景でした。
Un tronco de pino abatido, probablemente se llevó de la costa, que se ven muy lejos en la foto ambiguamente.
仙台沿岸津波5.JPG

「津波の痕を見ておこう」なんて言っても、まったく実感がわかず (と言うか、何のことか分からず)、ここまでいつものようにギャーギャー騒いでいた子供たち。
 でもこの光景はさすがに、こんな子供たちをすら、思わず口をつぐませ、呆然とさせてしまうに足る、あまりにも凄惨かつ恐怖に満ちたものでした。
Los niños miran la escena del desastre, perdiendo las palabras.
仙台沿岸津波6.JPG

 もし何もなければ、この頃にはすでに田植えが始まり、青々とした田園風景が広がり始めていたはずの場所。同じ子供が走るでも、こんな光景の中を走るようなことを誰が想像したことか、と考えると・・・ 絶句するしかありませんでした。
Normalmente, en este tiempo, la plantación de arroz ya debería empezar. Pero este año, no hay ninguna cosa en la tierra, y se ven solamente los restos del desastre.
仙台沿岸津波4.JPG


 その後仙台空港に移動しました。
 空港のターミナルビルはいまだに閉鎖されたままです。 仮囲いの隙間から中をのぞくと、建物の中は一面の泥で、さすがにこれでは再開できないのも、むべなるかなです。 
 実際にはこの日にはすでに一部の航空路の運行が再開しており、ターミナルはかろうじて片付けたほんの一角を使っていました。
 なお、写真ではわかりにくいのですが、津波の水位を示す泥の線が、柱にくっきりと残っていました。
El aeropuerto de Sendai, cerca del area dibujado arriba. El edificio estaba cerrado todavía, ocupado por el barro.
仙台沿岸津波7.JPG


 仙台空港は海の近くなので、そこから車でちょっと移動すると仙台湾沿いの海岸に着きます。

 --- そして、このあたりの様子が、今回の帰省で、私の心に最も印象深く残ったものになりました。

 海岸に到着直前の、車内からの光景。
 Escena del barrio cerca de la playa.
仙台沿岸津波9.JPG

 つい先頃まで、ビーチサイドの素敵な家だったはずの場所。
Esta casa totalmente destruida debería ser un lugar divertido antes del terrémoto.
仙台沿岸津波10.JPG

 昨年の夏までは、海水浴客が行き来していた(小学校の時、私も訪れた)に違いない、砂浜に至る堤防。
El muro de la playa, que pasaban muchos visitadores para llegar a la playa, hasta el verano pasado.
仙台沿岸津波11.JPG

 そして、地震から約3週間を経た後、今では残酷なほどに静かに、青く、美しく広がる海と砂浜。
La playa y el mar estaban demasiado tranquilos, azules y lindos, despues de tres semanas del terrémoto.
仙台沿岸津波12.JPG

 仙台湾の広い砂浜にほど近い、穏やかなビーチサイド。 そこに、おそらくはそのような場所にあこがれて建てられた家々。
 何もなければ、ただただ美しく、青い海と砂浜。
 これらは、あの日のあの時間までは、確かにここに存在していたはずのものでした。 
 誰も予測しなかった激しい大地の揺れと、千年に一度の大波が、突然ここに押し寄せるまでは・・・

 ・・・ 私は海に行くのは大好きですが、今年からは、海水浴に子供を連れて行く度に、この日にこの場所で見た光景が、残酷な印象とともにずっとよみがえり続けるであろうと思います。 ・・・ 

 最後にこの地の堤防の様子。
仙台沿岸津波14.JPG
写真で一番手前の左半分に写っている大きなコンクリートの塊は、向こうに見えている堤防の礎石が打ち砕かれてここまで流されてきたものです。 津波の破壊力の大きさに、ただ驚くばかりです。 ちなみに、これよりももっと大きなコンクリート塊が、もっと遠くまで流されているところもありました。
Encontré un bloque grande, una parte del muro, que se ha destruido por Tsunami y se llevó unos dies metros. Me sorpresaba la fuerza de Tsunami de esta ocasión.

 津波の痕は、ニュースで見るよりも遙かにすさまじい、文字通り想像を絶するものでした。
 子供たちにどれほどの印象が残ったかは分かりません。 まだ理解できないかも知れません。 でも、この日の写真は大事にとって置いて、いずれまた子供たちに見せながら、この日私が抱いた印象について話をしてみようかと思っています。

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震災その後5  仙台の家と周辺の様子 [日常]

 仙台の家はひどい散らかり様であると父から聞いていたので、いろいろ手伝うつもりで行ったのですが、さすがに散らかったままでは日常もままならなかったらしく、生活空間の部分だけは自分で片付けてあったので、子供たちもそのまま食事したり寝たり、と普通に生活できました。
DSCF2004.JPG

 父はもう80歳を超えているのですが、こういうことに関しては我々以上の手際よさで、まあこう言っては何ですが本当に助かります。

 とは言っても、仙台の家はもう築40年以上の古い家なので、地震の爪あとは至る所に見られました。
 結構ひどかったのが風呂場。
DSCF2020.JPG
 このほかのタイルにも結構ヒビが入ったり、また父の話では地震直後は欠けたタイルが床に散らばっている状態だったとのことでした。 風呂に入るだけなら問題ありませんが、こういう傷は夏になるとカビの温床になって不衛生になるので、手入れが大変そうです。
 あと、風呂場の窓が開きません。 家が歪んでしまったようです。 この点については骨組みも含めて早めに点検しないと、余震でどうなるか心配です。

 壁の漆喰は至る所でこんな感じでした。
DSCF2018.JPG

 外壁には、目立たないもののあちこちにひび割れが。
DSCF2021.JPG
DSCF2023.JPG
 右に立てかけてある網戸は、もとの窓枠が風呂場同様に歪んではまらなくなってしまったので、しょうがなく外しておいてあるものです。

 こんな感じで、まあ日常生活に差し支えないとは言っても、古い家であるし、今後の余震などに多くの不安を残す状態でした。 実は、この家は昭和53年の宮城県沖地震(震度6)でも一度揺さぶられているので、それを考えると尚更です。


 その後、家の周りを少し歩いてみました。
 上にも書いた昭和53年の地震の際には、市内のあちこちでブロック塀が倒壊し、その下敷きになる(死亡された方も多い)という事故が大変多く発生して問題になりました。 その後対策は取られたと聞いていますが、我が家の近くでもこんな光景が何カ所か見られました。DSCF2026.JPG

 この家は、ブロック塀が倒壊してしまった後を仮囲いにしてあります。
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 また別のところ。 一見それほどでもないようですが、もし地震の時この塀の近くにいたら、相当な大けがに至る可能性もあります。 そう考えると恐ろしくなります。DSCF2031.JPG

 この家は、私が子どもの頃は電器屋さんだったところですが、外壁のモルタルがみんなはがれ落ちてしまっていました。 そのせいかどうかは分かりませんが、引っ越しの作業をしていました。
DSCF2034.JPG

 あと目立ったのが屋根の損傷。 私の家はトタン葺きなので大丈夫でしたが、瓦屋根の家はほとんどが、程度の差はあれこのような損傷を被っていたようです。
DSCF2033.JPG
 これと同様の光景は、前日に高速道路を走っていたとき、茨城県内くらいからすでにあちこちで見られていました。

 地震と関係ありませんが、歩いていたら、私が小さいときに住んでいた家が、まだ現役で残っているのを見て感激してしまいました!
DSCF2025.JPG

 
 あとあちらの方では、NHKが被災者のために、生活に必要ないろいろな情報をテレビで流しています。
 時間を決めてこういう感じで放送するときもありますが ↓
DSCF1912.JPG

 通常の番組を流しているときも、画面の外枠には24時間ずーっとこういう感じで情報が流され続けています。 ↓
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ここらへんの緊迫感というか、被災地の実感みたいなのは、やはり東京あたりとは違うと思いました。

震災その後4 連休中は仙台へ [日常]

 この連休中は、子供たちを仙台の父親の家に連れて行きました。 

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 震災の後、心配ではあるものの交通機関の問題などもあり一度も行っていませんでした。 ようやく鉄道や道路も復旧の兆しを見せ、また先日書いたようにガスや水道も使えるようになったということだったので、子供たちをみんな連れて行ってくることにしました。
 4月30日に出発し、5月2日は学校・幼稚園に欠席届を出して、4日の午後に帰途に着くというスケジュールでしたので、まるまる中3日滞在できました。

 新幹線はすでに全線復旧していますが、荷物がちょっと多くなったのと、またうちの子供たちはとにかく公共の場で騒ぐ、暴れるをやめられない人たちなので、クルマで行きました。
 東北自動車道はかなりの渋滞だったので、まず常磐自動車道を通って いわき まで、そこから磐越道で郡山に抜け、あとは東北自動車道で仙台まで、というルートで行きましたら、ほとんど渋滞につかまらずに済みました。  結局、早朝に横浜の家を出て、父の家に到着したのは午後2時前。 途中数回の休憩をしたことを考えれば、まずまず順調な旅でした。

 上記のルートでちょっと気になるのは常磐自動車道のいわき付近でしょうか。 北上するにつれ、「いわき以北は通行止」の表示が目立ち始めます。 現今の情勢が情勢だけに、やや不気味に感じられました。 ただ、道路は(当然でしょうが)それなりの交通量もあり、通過してみた印象では特に何か緊迫したようなものは感じられませんでした。

 磐越道の途中に、「阿武隈高原」という名前のサービスエリアがあります。 ちょうどその辺で昼時になったので、食事がてら子供たちを降ろして大休止としました。
(ちなみに写っているクルマは私のではありません)
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 売店の窓に貼ってある 「たちあがれ福島」 のスローガンが、何か痛々しく感じられたのはおそらく私だけではないと思います。

 SAはその名のとおり高原にあるせいか、天気の良い日中にもかかわらずひんやりとしており、桜が満開でした。 今年2度目の桜を鑑賞しました。
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 桜のほかの花もこんな感じで、私から見ると季節が1ヶ月くらい逆戻りした感じです。
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 SA内にはちょっとした遊び場もあり、子供たちは窮屈な車内から開放されて、飛び回って遊んでいました。 他の子供たちにもこのスポットは人気で、ちょっとした混雑となっていました。
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 高速道路には、さすがにあまり大げさな震災の傷跡はありませんでしたが、あちこちで道路がうねっているので、うっかりしているとクルマがぴょんぴょん跳ねてしまいます。 また、いたるところにこんな修復の様子が見られました。
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 あと、こんな車両がひっきりなしに走っていました。
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 午後2時前、無事到着。
 父は久々に会う孫たちの到着に大変喜んでいました。
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 また稿を改めてあちらでの様子を書きたいと思います。
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震災その後3 仙台でガス復旧 [日常]

 今朝、仙台の父から電話があり、昨日ついに父の家でもガスが復旧したとのことでした。
 同時に、仙台市内全域でのガス完全復旧が宣言され、いろいろあった私の周辺でも久々に明るいニュースになりました。
 父の話では、父の家の作業に携わったのは札幌市ガス局の方だったと。またお隣の家では大阪市ガス局の方だったそうで、こんな風に全国からの救援により、地震から1ヶ月程度で復旧できたのだという事実に本当にありがたく思いました。 
 父は、作業に来ていたその札幌の人に声をかけて話を聞いたところ、彼らは地震直後に仙台入りし、その後1ヶ月ずっと仙台で作業しっぱなしで家に帰っていないそうです。 
 その後昼食時、作業用の軽トラックの中でその方々がカップラーメンを取り出すのを見て、父はさすがにいたたまれなくなり、昼食代を渡して、どこかで食べてきて下さいと言ったそうです。 そうなると彼らの泊まり先も心配になりますが、それはさすがに鳴子の温泉宿をあてがわれて、毎日そこから仙台市内に来ているということで、せめてそれくらいのことはされているのだと私も少し安心しました。

 ガスが復旧すると温かいものもコンスタントに口にできるようになると思うので、父もいくらか楽になるのではないでしょうか。


 ピナはその後、おじいちゃんを励ますものをもう一つ作って送りました。
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 宅配便用のボール紙封筒の裏に書いたもの。
 相変わらず判読困難ではありますが、「みんなだいすきだよ」 の文字が見えます。
 中央のハートの中にいる4人のうち、一番上の帽子をかぶっているのがおじいちゃんです。 あとは家族の顔をひとりひとり。 ピナの意図としては、「みんな、おじいちゃんと一緒にいて応援しているよ」 というメッセージを込めたようです。
 ちなみに私は、ピナがこれを書いた当日、無精ヒゲをのばしっ放しにしていたので、絵の一番右下にこんな顔を描かれてしまいました (>o<)
タグ:復旧 ガス 震災

子供たちの震災支援 [子どもたち]

 今度の震災で、仙台に住む私の父は、広い意味での被災者としていろいろ不自由な生活を現在なお強いられています。 家の中はもう足の踏み場もないそうで、特に母が生前使っていた姿見が倒れ、広範囲に細かいガラス片がまき散らされている状態はもうどうにもならないとのことでした。 父も高齢ですし、一人で片付けるのには限界があり、やっと作った布団一枚分のスペースで現在寝起きしているとのこと。 ガスが復旧しないのでロクな調理もできず(父は結構料理が得意)、かなり状態は悪いようです。
 ここで駆けつけることがままならないのが、現在の私の悔しいところです。

 こんなことを子供たちに話しておりましたら、ジュンがまず率先して、「じゃあ、おじいちゃんにお手紙書く」 と。
 クリスマスに家内の両親からもらったお手紙セットを早速取り出し、何かしばらくごそごそとやっていました。それをそのセットの封筒に入れ、
「これ、おじいちゃんに出すよ。どうすればいいの?」
とのことでしたので、そのセットの封筒ごと定形の封筒に入れ直し(セットのは小さすぎてそのままでは送れない)、表書きと切手を貼るところまでやって見せて、ポストへの投函は本人にやらせました。
 実は、「中を見ちゃダメだよ」 ということだったのですが、本人には内緒で、ジュンが寝た後に撮った写真がこれです。
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 「せんだいのおじいちゃんへ 
  じしんがなん日もつづい(て)こ
 わかったよ。 おうちはぐらゆれ
 るしものもおちるからたいへん
 だったよ。 おじいちゃんのおうち
 はものがおちなかったかしんぱ
 いだよ。 ぼくはがんばる
 からおじいちゃんもがんばっ
 てね。」

 「見ちゃダメ」と言っていましたが、一年生にしてはまあまあよく書けているのではないかと思いました。


 ピナは「おじいちゃんは柿が好きだから、柿を送ってあげる」と。 ちなみに柿が好きというのは事実です。
 「今、柿なんかないよ」 という私の野暮な指摘などには耳もくれず、出来上がったのがこれです。
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 判読困難ですが、上の二つの「柿」には、その二つにまたがって 「せんだいのおぢいちゃん」と、タテ書きで書いてあります。 「おじいちゃん」ではなく「おぢいちゃん」なのが時代がかっていてご愛嬌。

 現在の状況なので、あちらに着くまで3日かかりましたが、着いたその日に、「おじいちゃん」から電話があったことは言うまでもありません。

ソワ、入院す [子どもたち]

 先週、ソワが入院するという騒ぎがありました。
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 去る3月26日土曜日の朝、ソワは起きてくるなり少し吐きました。
 小さい子はたまにこういうこともあるし、またその後は朝食をちゃんと食べたので、大したことなかったか、と思っていたら、しばらくして食べたものを全部吐きました。
 これでさすがにただ事ではないと思い、たまたまこの日に土曜診療をやっていたかかりつけの小児科に連れて行きました。 先生曰く、「ウイルス性の胃腸炎ですね。まだ流行っていますから。 少しづつ水分をあげて下さい。 月曜日にまた様子を見せに来て下さい」 とのこと。 「無理に飲ませるほどではない」という整腸剤だけ出されて帰ってきました。 この時点では、ソワはまだ活気もあり、こちらもあちらもそれほどの切迫感はありませんでした。

 状況が緊迫したのは翌日曜日。 
 とにかく吐く、下痢する。 胃に負担をかけないようにと、スプーンで少しずつあげる水やお茶も、口にする片っ端から全部吐く。 そして大して水分が取れてないのに、ほとんど水がそのまま出てきたような、まるでおしっこのような下痢を大量にする。 これが一日中です。 脱水症状にならない方が不思議です。
 夕方には、体中の水分が搾り取られて、いつも丸顔のソワが、まるで骸骨のような顔貌になってしまいました。 本人は最初は泣いていたのですが、夜には泣く元気すらなくなってきてしまいました。 こうなると緊急事態です。

 翌28日月曜日、朝一番で病院へ。 「来週もう一度見せに来て下さい」どころの騒ぎではありません。 さすがに先生も一目見るなり、「点滴します」。
 左手の甲に点滴の針を刺されました。 ソワは、これをされてももう泣き声を上げられないほどになっていました。 そして処置室に移され、こんな姿に。
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 そして、必要な点滴の量と、それにかかる時間から計算して、入院することになってしまいました。
 私が夕方、仕事から病院に回ったときにはこんな様子。 ソワはまだ意識がモーローとしています。
 そばで見守っているのはジュンです。
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 このままひたすら点滴を続け、そしてその日の深夜・・・
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やっとソワが目を開けて、なんと・・・
「おとーさん、ハンバーガー、 たべたい」
・・・ とつぶやいたこの瞬間には、本当に涙が出そうになりました。


 これ以降は順調に恢復し、翌29日の早朝に見舞ったときには、
「おとーさん、 おにぎり、たべたい」
とのことでしたので、早速ご所望のものを届け、回復後の最初の食事風景を見届けました。
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 同日の昼は病院の給食。
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こちらもこのとおりの食べっぷりで、しかもその後も吐くこともなく、この日の午後に無事退院となりました。

 退院後も、下痢がしばらく残ってしまい保育園もお休みしておりましたが、それも今日(4月3日)にはほぼなくなり、明日から保育園に復帰できそうです。

 ちなみにソワが入院した病室はきれいだったし、窓からの眺めもこんなでした。
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 写っている木の枝は桜です。 花の盛りの頃に入院した人は当たり、なんていう不謹慎な感想を抱いてしまうほど、目の前に桜がたくさん立ち並んでいました。
 ソワが入院当日はまだこんな感じでした。
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 でもおかげさまで、退院後は食欲も戻り、晩にはご飯をおかわりした上、「快気祝い」のケーキまで平らげました。 兄弟そろってアニメを見られることは、本当に幸せなことだと、今度の一件を通じて改めて感じました。
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地震その後 子供たち [子どもたち]

 地震の後、子供たちにもいろんな行事がありました。
 子供たちも地震のことはいろいろと耳にしているようなのですが、東京に暮らす私としては、子供たちが前から楽しみにしていた行事くらいはできるだけ実現してほしいと思いました。
 
 いくつか中止になったものもありましたが、ピナの幼稚園の卒園式、ソワの保育園の卒園および成長を祝う会は執り行われました。
 あと、この期間中にピナは5歳の誕生日を迎えました。

 まず17日は、ピナの幼稚園の卒園式でした。 ピナは今年は送る側です。
卒園式1.JPG

 卒園する年長組に仲の良い子がいたピナは、その子が目の前を通り過ぎていったとき、こんな顔になってしまいました・・・
卒園式2.JPG

 私は式には出席していなかったのですが、他の子のお母さんから聞いた話では、式ではピナは結構大変だったようです。
 その話によると、

   年長組がお別れの歌を歌い出したとき、その中の何人かが泣き出した
                     ↓
               ピナがもらい泣き開始
                     ↓
               その声がクレッシェンド
                     ↓
   その泣き声はますます大きくなり、ついに司会の教頭先生のマイクの声が通らないまでに
                     ↓
        やむを得ず式を中断し、担任の先生がピナをなだめにかかる
                     ↓
             数分後、ようやく静まり、式再開

ということだったそうです。
 一部のお母さんからは、「ピナちゃんは感情が豊かな子ね」 といわれましたが、普段からピナの行状を目にしている私としては、単に興奮しやすく、激情派なだけだと分かっているので、ああまたやってしまったか、という感じでした。


 翌18日はピナの5歳の誕生日。
 この地震の余波で、いろんなことが自粛ムード、またスーパーに行ってもあまり食材がないような中での誕生日となりました。
 うちでも、親戚の何人かがすでに絶望的、などの未確認情報が流れています。
 私も、ピナから誕生日プレゼントの具体的なリクエストを聞いていたにもかかわらず、それを調達する暇も余裕もありませんでした。
 でも、一生に一度しかない5歳の誕生日。 せめてできるだけのことをしてあげたいと思い、午後を休みにしてピナ、妻と一緒にケーキを作りました。
ピナ誕生日2.JPG

 本当ならもらえるはずのプレゼントのない誕生日。
 「地震だからしょうがないよ。 仙台のおじいちゃん、地震で怖いんだし」
という、ピナの気丈な言葉に、5歳になったことを実感しました。
ピナ誕生日1.JPG



 明けて19日は、ソワの通う保育園での卒園式。 ソワはもちろん送る側です。
 送る側の小さな子供たちも、「成長を祝う会」と題していろんな出し物をやりました。
 ソワの所属する2歳児クラスは歌と踊り。
 保護者たちが居並ぶ異様な雰囲気に、泣き出してしまってまったく演技にならない子が多かったのですが、ソワはこういう席では肝っ玉が座っているらしく、一人超然として演技らしいものをしていたのには、親ながら感心してしまいました。
ソワ発表会.JPG
 踊りの様子、保育室の飾りなど、いろいろ面白かったのですが、どうしても他の子の顔が入ってしまうので、ここにはソワのポワーンとした様子しか載せられないのが残念です。



 週末、しばらく空けてしまった横浜の家へ。
 玄関前には、水仙が咲きそろっていました。 また、チューリップもしっかり芽を出していました。
narcissus.JPG
今年の冬は寒い日が多かったので、チューリップの球根もしっかり寒さに晒されたと思います。きれいな花が咲くものと期待しています。
 
 しばらく見ないうちに、クリスマスローズはすでに盛りを過ぎていました。
xmasrose.JPG


 子供たちと公園に行きましたら、こちらには白木蓮が (木によりますが)。
magnolia1.JPG
magnolia2.JPG

 いろいろと大変でもあり、ストレスの多かった1週間でしたが、それゆえにと言うべきでしょうか、子供たちは公園で元気いっぱいに遊びました。 私も久々にまるまる半日一緒に外で遊びました。

(動画のアップがうまく行ってないかもしれません。 今後研究します)



 地震の余波の写真をひとつだけ。
 私の職場の近くに、小さなガソリンスタンドがあります。 普段はそれほど混んでいるのを見かけたことのないところなのですが、地震の後のガソリン逼迫騒ぎはこんな光景を現出させてしまいました。
GS.JPG

一番左は給油待ちの車の列。 スタンドはどこにあるかというと、写真の一番右手奥、道路標識のあるところのちょっと先です。 何か背筋の寒くなるものを感じました。
 昔、オイルショックのときにも、ここまでのことはなかったような気がしますが・・・

地震その後 2 [雑感、コラム]

 一昨日私の父が、三陸の実家のある町に車で乗り込み、状況を見てきました。
 目的地は何度か報道されている陸前高田です。 うちの実家は、その町からさらに岬の方に入り込んだところにあります。 父によれば、途中の道路は一応通ってはいるものの交通規制が厳しく、父はその都度事情を話しながら通してもらったということです。

 また昨日は、知人親類の安否を触れ回るために一時的に盛岡に移動した親戚から電話がありました。 

 父、親戚の話を聞くと、地元は一部では想像を絶する惨状であり、また幸いにも他の一部ではそれほどでもないところもあり、ということ(当たり前ですが)で、かなり詳細が分かりました。

 親族は無事が分かった人が多く、あの地区では奇跡的なことだと思いました。
 ですが、私が親同然にかわいがってもらった祖母方の叔母ユキとその家族は、絶望的とのことでした。 報道で流された町の状態を見て、この人たちについては覚悟していましたが。
 でも私としては、どこに流されてしまったか分からない、というのが一番いやです。 不謹慎かも知れませんが、どんな見つかり方でもいいから見つかってほしいです。 ユキおばさんには、たとえどんな姿になっていてもいいからもう一度お目にかかってからお別れしたいです。


 地元の消防や警察は全部海に流されてしまったので、全国各地から駆けつけた方々のお世話になっているようです。
 うちの地元は、警察は京都府警、消防は大阪と九州の混成部隊とのことでした。 電話してきた私の親戚は、地元のがれきの山に沿って 「北九州市消防」 と大書されたレスキュー車が十数台も延々と並んでいるのを見て、「これで大丈夫だと思った」、と言っていました。 要するに、そんな遠くから救援に来ていただいたのを見て有り難く、また力づけられたと思ったということでしょう。 

 また彼は、「あんたの家のあたりは、大阪の 「きめん」 というところの消防車が来ていたぞ」 と。
 私も大阪とか関西の地理には疎いので、へえ、そんな地名の町が大阪にあるのかと思いましたが、一応その 「きめん」 というのはどういう漢字を書くのかと聞きましたら、どうも 「箕面」 のことのようです。 これはたしか「みのお」と読むのですよね。 箕面の方には申し訳ないですが、東北の寒村にずっとこもって暮らしている人間にとって、関西地方というのはかくも遠いところなのだということでお許し下さい。 実は私も大同小異です。

 でもとにかく、箕面、北九州、京都、「かくも遠いところ」から、本当に有り難く思います。 東京にいる私も勇気づけられます。



地震その後 [日常]

 今回の地震の後、仙台市内にいた父親とは、実に今朝になって初めて電話がつながり、ようやく安心することができました。 ただ、暖房も食料もない状態で、その上こういうときに限って寒さが厳しいようで、状況はかなり厳しいようです。
 幸いにして、父は秋田方面に身を寄せるところがあるので、今日中にもそちらに移動する予定とのこと。 そちらに到着すれば本当に安心です。

 三陸の親戚とはまったく連絡が取れません。未確認情報では、その一部は行方不明者になってしまっているとのことで、この方面は最悪の状況もあり得るかも知れません。

東北太平洋地震 [日常]

 今日の大地震、本当に驚きました。
 
 幸いにして、私も家族も、職場も、それほどの大被害はなくすみました。
 今日は職場の近くに帰るので、帰宅も私は問題ありません。

 ただ、仙台市内に住んでいる父親と、午後9時半になってもまったく連絡が取れず、これだけが残された心配です。

 東北地方沿岸の津波も恐ろしいことでした。
 私はもともと三陸の出身なので、祖父から、昭和8年の三陸大地震津波、昭和35年のチリ地震津波の体験談を繰り返し聞いておりましたが、ついに私自身も(テレビでですが)実物をリアルタイムで見てしまいました。
 うちの実家のあたりがどうなっているか、早く知りたいのですがまだどうしようもありません。

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